市民ケーンのオーソン・ウェルズが愛情をそそいだソニーベータカム

市民ケーンのオーソン・ウェルズが愛情をそそいだソニーベータカム 1

米GIZMODOでFrank Becham氏がオーソン・ウェルズ氏と過ごしたベータカムについての思い出を語っています。

Frank Beacham氏はNYベースのwww.beachamjournal.com所属のフリーライター。Tom Robbins監督の映画「ゆりかごは揺れる(Cradle Will Rock)」のプロデューサー。このエントリーでBeacham氏が語っているストーリーを元にした新しいお芝居MaverickのシナリオをGeorge Demas氏と共に制作。

1985年の1月、電話がなった。電話の相手はオーソン・ウェルズ氏、昼食を一緒に食べようという誘いだった。そしてそれがきっかけで、私の人生で一番の桁はずれな冒険が始まる事になる。

時に、人生という旅は全く予期しない始まり方や終わり方を

するものだ。私がウェルズ氏と共にした人生の旅の部分はただ1つのことにつきる、ソニーの新しいカムコーダー、ベータカム

当時、このベータカムは市場にでたばかりで、天才的な映画監督であるウェルズ氏はこのベータカムを使ったすごいアイディアを考えていた。彼に不可能はなかった。「それは無理だ。」なんてきっと彼は言ったことないに違いない。

これは、そんな彼との短くもとても情熱的な話である。

当時、私はハリウッドにあるSunset-GowerスタジオでTelevision Matrixという小さなビデオプロダクションをやっていた。夏にマイアミからカリフォルニアにまだ越してきたばかりの頃。1975年にビデオプロダクションの仕事を初めた。たいていの仕事はラテンアメリカのネットワークで配信するためのニュースの撮影。多くのネットワーク会社がフィルムからビデオに移行していた時期で、ビデオの撮影クルーの数がまだ追いついてなかったこともあり、私の仕事は順調だった。

そして1982年の終わり頃、私は全く新しい物を手に入れる。アメリカ国内に最初に入荷されてきたソニーのベータカムだ。

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【ベータのハリウッド進出】

マイアミでの私の顧客の1つはEntertainment Tonightだった。ロケーションの休憩時間に真新しいベータカムをRobin Leach氏に見せてみた。彼にはその時ちょうど新番組をやらないかという話が来ていたのだが、80年代の半ばで1時間番組を10万ドルという低予算で撮影するクルーを見つけるのに頭を悩ませていた。ベータカム...、Leach氏はもしかしたらこれが全て解決するんじゃないか、と考えた。

「これで、できると思う?」彼の質問に「たぶん」と答える私。

当時初めてのカメラとレコーダーが一体化したベータカム。編集するために、フォーマットの違うプレイヤーに接続しなければならない、つまりCフォーマット(1インチVTR)システムとの連携が必要になる。それが「たぶん」の原因である。

Leach氏が私に持ちかけた話はこうだ。もし私が技術面での問題点を全てクリアーすることができたら、私と私のスタッフ全員をLAによんで新しい番組のプロダクションを任せるというもの。

俄然やる気になる私。すぐにNYのソニーブロードキャストオフィスに連絡し、当時の代表Charles Felder氏と話をする。これがまたとないタイミングだった。当時、ソニーはベータカムを広げていくために何かいいアイディアはないかと私と同じようなことを考えていたので、私の持ちかけたプロジェクトはピッタリとはまった。一瞬で契約成立。私が少し金銭面で投資をするのを条件に、ソニーがLAに(実験的ではあるが)フル装備の設備をつくってくれることに。そしてそれを史上初の設備としてハリウッドに売り込んで行くわけである。

【ハリウッドで一番熱い編集スタジオ】

関係者一同は大盛り上がり。Leach氏は新番組の準備を着々とすすめ、1984年の夏、私とスタッフはLAへ引越し。その年のLAでの夏期五輪のブロードキャストをやっていたのを理由に、Sunset-Gower(現コロンビア・ピクチャーズスタジオ)を現場に決定。五輪が終わると、局がたくさんの機材を破格で売りにだした。めぼしいものには早めに当たりをつけていたので、五輪が終了するとすぐに買い取って私達の新しいスタジオへ運び込んだ。

幸運に恵まれたことにJim Fancher氏(ハリウッドのTechnicolor社の現Chief Science Officer)が設備の担当に。Jimは天才的なエンジニアであると同時にとんでもない交渉上手でもあった。うまく組み合わない部分は、会社に働きかけ違った技術のアプローチをする。

棚によりかかって、なんでこの製品がうまくいかないのかという話を延々とする彼の姿はいつも想像できる。

Jimのおかげもあって、なんとか予算内で予定通りに完成した。準備は整った。

新番組「Lifestyles of the Rich and Famous」がオンエアー。

正直なことを言うと馬鹿らしい番組だと思っていた。1シーズンもてばいい方だと。Leach氏のお金で私とスタッフがLAでオフィスを構える事ができるようになる、それが何よりのポイントだったわけだから。オフィスを構えたら、後の仕事はなんとかなる。

ところが、驚くことにこの新番組が異常なまでに大当たり。これは人生で1番びっくりしたことの1つかもしれない。完全に予想外だった。

私たちはインターフォマット編集(ベータカムから1インチへ)を最初にやりとげ、さらに新番組Lifestylesはこの新方式を最初に導入したメガヒット番組。

歴史の1ページを確実に作った

これによって、テレビ制作のコストは大きく削減可能に。半分くらいの値段で制作できるようになった。評判はどんどんひろがり、私たちはスタジオ見学に追われるくらい。ソニーはMilton Berle氏を起用して、この設備と技術を広める2ページの大広告までうつことに。

市民ケーンのオーソン・ウェルズが愛情をそそいだソニーベータカム 2

【ついにオーソン・ウェルズ登場】

フリーで番組の編集をしていたPaul Huntは過去にあのオーソン・ウェルズ、俳優であり、監督、プロデューサー、そして伝説であるあのオーソン・ウェルズ氏の音響を担当していたことがあった。Paulがウェルズ氏にベータカムの話をしたその瞬間から、この天才はベータカム、ひいてはテクノロジーに大きな興味を持ち始めた。これがきっかけで、私に会いたいということになり、映画関係社なら死んでもいいというかもしれないウェルズ氏との昼食権を私は手にすることになった。

正直なところ、私はウェルズ氏に関してあまり詳しくなかった。60年代にSouth Carolina大学でテレビとラジオを学んだので、ウェルズ氏の映像業界への貢献や影響力を避けるのはもちろん不可能。注目の音響から動くドリーショット。ウェルズ氏は天才である。...だが、市民ケーンを見たというだけで、彼に関してまた彼の動向に関して私は何も知らなかった。

そしてむかえた昼食。ウェルズ氏常連のお気に入りレストランMa Maisonでの昼食は大盛り上がり、素晴らしい時間を過ごした。なんで私たちがあんなに打ち解けて盛り上がったのが今でもよくわからない。ウェルズ氏はビデオに関する全てのこと、特にベータカムに興味津々。ベータカム、ウェルズ氏が夢描いたフィルムを必要としないカメラ。会話は尽きない。

(同席したウェルズ氏の愛犬に脚を噛まれ続けたのがちょっとイラっときたけど、それはもう天才ウェルズ氏の愛犬なのでもちろん許します。)

この昼食を発端に1985年はウェルズ氏と何かと一緒することになった。出会ってまだ間もない頃は、ウェルズ氏はよく私を変な方法で試そうとしてきた。ある時、夜中過ぎくらいにオーソンが(ウェルズ氏はみんなにオーソンと名前で呼んでくれといつも言っていた。)音響でトラブルが発生してるから助けてくれと電話をかけてきたことがあった。ビバリーヒルズの彼の自宅でなんかのナレーションをナグラテープレコーダーを使って録音・編集しているという。

「かみそりの刃でつなぎをしてやってるんだけど、音がとんじゃうんだよ。どうしたらいい?」それが彼の質問だった。現代の音響を作った第一人者とも言える彼からこんな基本的な質問がくるなんて変だなぁと感じたその時、寝起きでぼーっとしてる頭で、あぁこれは私は試されてるんだなぁと思った。

「オーソン、カミソリの刃は磁気を帯びてるからですよ。何か違うものを使ってはどうですか?」私は答えた。「あ、そうだね」とオーソン。そして遅い時間に電話して起こしてしまったと謝罪して電話はきれた。私はそのまままた睡眠にもどり、この問題をオーソンから聞く事は2度となかった。と、まぁそんなふうにオーソンはあれこれ私を試してきた。

【ソニーに電話だ! なんとしてもやってのけろ!】

ビデオカメラとノンリニア編集のことを知れば知るほど、オーソンは自分のビデオプロジェクトをやろうという気持ちが強固になっていった。オーソンはプロジェクトを自分自身でやりたがった。他から何かを借りてくるのではなく、自分のものとしてやりたがった。編集スタッフを自宅にむかえ、彼が編集する横に座らせ、そうやってプロジェクトを進めて行きたいと思っていた。

金銭面の話になったので、私はビデオ設備の提供とオーソン独自の番組「Orson Wells Solo」の制作のために資金を集める手助けをすると彼に申し出た。オーソンの過去の映像から新しいものまで組み合わせていく。私のスタジオは予約でいっぱいだったがそんなことはどうでもよかった。オーソンが必要とするもの全てを彼に約束し、全てを実現したいと思った。

そしてついに私たちは十分な資金をあつめ、プロジェクトの開始準備は整った。後はオーソンが2台のベータカムをどのように使っていくかを考えるだけ。

1940年にオーソンが市民ケーンを作った時と同じように、彼は今回も技術の妥協や制限を許さなかった。1985年、ベータカムはCCDセンサーではなくサチコン管をつかっており、タイムコードとシンクさせていくのは多少困難だった。が、オーソンはそんなこと気にもせず、セット内をワイヤレスであちこちと動き回った、そして結果はいつも完璧にシンクしていた。彼は監督をつとめ、プロジェクトの遅れを許さなかった。

ソニーに電話だ! なんとしてもやってのけろと伝えるんだ!」彼はソニーも巻き込みプロジェクトを進めた。妥協はない。「できません、なんて聞きたくないよ。」

私はソニーに電話をかけ、結果ソニーは専門のエンジニアをオーソンのプロジェクトのために2人貸し出してくれることになった。

1985年の11月、撮影の前日カスタマイズされ最高潮に達したベータカム。テストにテストを重ね準備は万端。エンジニア・スタッフ一同、プロジェクト関係者全員から「できない」という言葉は消えた。オーソンの望むもの全てをなんとしても実現させる。不可能という言葉はスタジオの外においてきた。

【撮影前夜】

撮影準備は続いている。オーソンはMerv Griffinnのトーク番組に出演していた。オーソンは過去に関した話をするのは無駄と考え、いつも未来の話をしたがった。「昔話なんてしたってしょうがない。」しかし、その日オーソンは珍しく過去の話をした。番組は多いにもりあがった。

番組終了後、彼はお気に入りのMa Maisonで食事をし台本の残りを書き上げるため自宅へ戻った。撮影開始まであと数時間。初日の現場はカリフォルニア大学LA校内。彼の準備ができしだい、電話で指示をうけ私たちスタッフは現場へ向うという手はずである。

オーソンからの電話を私たちは待つのみ。

翌朝、私はオフィスでオーソンからの電話を待っていた。そしてついに電話のベルがなる、しかし相手はオーソンではなくPaulだった。

「ニュース、聞いた?」彼は言う。

「何のニュースだよ?」私は答える。

オーソンが亡くなったよ。

オーソンは心臓発作で昨晩亡くなった。彼はタイプライターに覆いかぶさるようにして亡くなっていた。台本を書いていたのだろう。

Paulからの電話を切ったそのほんの数分後、ウェルズ氏のアシスタントから電話連絡を受けた。

プロジェクト、中止になりました。

【ウェルズ氏の新たな技術への伝説と愛情】

私はオフィスから自宅へ運転してもどった、頭がまるで働かなかった。彼の死から何日か経ち、オーソン・ウェルズ氏と過ごした素晴らしい時間、経験が私を次の旅へと連れて行く。ここからまた、私の新たな旅が始まる。オーソンの番組のために準備されたベータカムで私は数週間後に行われる彼の葬儀のためのビデオとその葬儀の様子を撮影した。その結果、私は彼がマーキュリー劇団時代を共にした素晴らしい人々と出会う事になる。

映画評論家のLeonard Maltinと私はオーソンの友人達と一緒にドキュメンタリーを制作し、マーキュリー劇団の役者Richard Wilsonとはオーソン個人のテープコレクションからいくつかのラジオドラマを使い作品を制作した。

オーソンの死から数週間たったある日、オーソンの撮影監督だったGary Graver氏が私のオフィスに訪ねてきた。そして私は、彼から生涯忘れられない話を聞いた。

「オーソンの灰をトラックにつんで、2週間くらいあちこちをドライブしてきた。」彼は言う。

「は?」

その瞬間、私の脳裏にハリウッドの伝説である彼の灰がLAの街に撒かれて行く様子が浮かんだ。

さらにGraver氏はこれを自分の家にもっていくなんて恐れ多いと続けた。どうするよ? と。

私は彼を見つめ、わからないと答えた。数ヶ月後にはオーソンの長年の親友であるAntonio Ordóñez氏の所有するスペインのRondanにある敷地内に埋葬されることになっている。

オーソンとのビデオプロジェクトの中止は、この穴を埋めるためにウェルズ氏に関するなにか大きなことをやらなけらばと私を駆り立てていった。彼との思い出を振り返っていると、彼が私に話したあるストーリーが思い出された。それは1937年にMarc Blitzsteinのミュージカルゆりかごは揺れるを制作していた時の話。 ちょうどその時、アメリカ史上で唯一軍によって清濁を中止された。その時の話は今や伝説である。資金があつまらず実現しなかったが、オーソンはその話を映画にしたかったと言っていた。

これだ、と思った。この映画を作ろう。これを実現するには、マーキュリー劇団時代のウェルズ氏の仲間の力が必須である。役者でありプロデューサでもあるJohn Houseman氏、その他たくさんの投資家達によって、このプロジェクトは何年も生き続けているのである。1番大きいのはTim Robbinsの協力だ。この話の力に魅せられ、90年代にゆりかごは揺れるの脚本・監督を担当し映画化した人物だ。

Houseman氏は前にこう言った事がある。真の天才に出会うのは本当にまれなことだと。そしてウェルズ氏は真の天才であった、自分の人生でたぶん彼は唯一の天才だった、と。今、私はその意味がよくわかる。ウェルズ氏、映画製作者であり、そして小さなビデオをいうフォーマットに大きな可能性を夢見た人。きっと彼は彼自身の作品でビデオの世界に革新を起こすには20年早く産まれてしまったのだろう。

小さなキャムコーダーが出る度に、AppleがiMovieのような画期的なソフトウェアを発表する度に、私はオーソンのことを思わずにはいられない。これを見たら彼はどんなに興奮するだろう、と。もし、今彼が生きていたら、きっと彼は資金繰りで迷うことなく彼の作りたい映画を作りたいようにつくっていたに違いない。それは、ウェルズ氏と彼を愛するファンにとって一生みることのできないゴールである。

トップ画像:Scary Cow/Flickr

ウェルズ氏とカメラの画像:MovieMail

Frank Beacham(原文/そうこ)