「技術者の理想郷」だったソニーの原点と夢、そして現在

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まずは炊飯器の話から、にしましょう。

ソニーを理解するには、創業者の井深大盛田昭夫を知るのが近道です。二人ともすでに亡くなってしまいましたが、彼らがソニーを率いていた時代、そしてその気まぐれとも言える経営スタイルが、今日のソニーのモデルを築いたと言っていいでしょう。たとえそうした過去が、ソニーの進化を遅らせていたとしてもです。

続きで、井深と盛田、そしてソニーの足跡を振り返ってみます。

 

炊飯器と電気ざぶとん

初期のソニーにはぎりぎりのとんでもない逸話がたくさんあります。第二次世界大戦後、日本はインフラを再構築しているところでした。軍需工場で使われていた電気は必要がなくなり、供給過剰状態にありました。井深氏と盛田氏はこれに目をつけて、電気炊飯器電気ざぶとんを市場に売り出したのです。

それはもうひどい商品でした。

デザインはいいのだけれど、炊飯器は木のおひつに電極を貼っただけのもので、蒸気が出ると回路を壊して炊飯器が止まってしまい、ご飯は生煮えか、炊き過ぎかのどちらかでした。電気ざぶとんは毛布や布団を焦がしてしまい、火事を起こす心配すらありました。

井深は第一級の機械いじり好きで、発明に長けており、1933年のパリ万博では彼の特許技術「走るネオン」金賞をとったほどです。一方の盛田は14代続く裕福な造り酒屋の長男として生まれながら、家業を継がず、科学の道に生きることを選んだ青年でした。

彼らは軍隊で出会い、終戦後すぐにソニーの前身となる東京通信工業を設立しました。

井深が同社のの設立趣意書で何よりも明確にしたのは、ソニーは「つねに誤解され続ける技術者にとって、働きやすい職場となる」ということでした。そこには、「技術者たちが技術することに深い喜びを感じ、その社会的使命を自覚して思いきり働ける安定した職場をこしらえるのが第一の目的であった。」とあります。

技術者はつねにソニーにおけるスターでした。おそらく、彼らが創りだしたもの以上に。

井深が率いた技術者集団

数十年もの間、というか今もそうだと言う人がいるかもしれませんが、ソニーにおける重要な経営判断は井深、盛田、そしてごく少数の経営陣によって行われてきました。役員であってもほとんどが仲間内のイエスマンである日本企業としては典型的なやり方で、これは欧米の企業で社外取締役が(理論上は)一般株主の意見を代表しているのとは対照的です。

ソニーは創業当初から、奇抜な発明集団で、技術者が自分自身のプロジェクトにゆとりを持って取り組めるように配慮されていました。が、初期の発明はしばしば他社のアイデアに基づくもの、または、発明というよりは改良といった方がいいようなものでした。

1930年にドイツの会社がテープレコーダーを作り出したのですが、レコーダーも磁気テープも高価なものでした。そこで、ソニーはより安価な紙テープを作りだしたのですが、音質は劣るものでした。何しろ、磁性粉を紙テープに狸の毛で文字通り手塗りしたものでしたから。

その後、ベル研究所トランジスタを発明したとき、ソニーはアメリカに従業員を3カ月間派遣して、その製造方法を学びました。まだトランジスタ製造は技術的に100個中たった5個という歩留まりしかない段階で、井深は製品化の決断を下したのです。彼の中では、すでにポケットサイズのトランジスタラジオのアイデアが浮かんでいたのです。それから2年を経た1955年、ついにトランジスタラジオTR-55が誕生し、草創期のソニーに大きな利益をもたらしたのです。

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井深の最大の成功といえば、ソニーが3億台弱販売したトリニトロン管の開発でしょう。このプロジェクトが始まったとき、ソニーは別の技術であるクロマトロン管のライセンスを受けていました。が、このクロマトロン管は歩留まりが悪く、売上の2倍の製造コストがかかっていました。それは、ソニーを倒産させるくらいの勢いでした。

そこで井深は自ら技術者チームを率い、トリニトロンをカラフルにクリアにするためののアパーチャーグリルを開発しました。そして2年近くをかけ、ようやく生産ラインに乗せたのです。後年、井深はこの時期を彼のソニー人生で最高の時だったと振り返っています。

もしこのとき井深が失敗していたら、現在のソニーはなかったでしょう。そして実際には、歴史的な成功となりましたが、こうした歴史こそ、いまだにソニーが技術、アイデア主導の混乱に頭から突っ込んでいってしまう要因になったのは否めません。

「ハリウッドにスタジオを持つことがずっと夢だったんだ」

盛田は技術一本やりではなく、どちらかというと素人の目を持った存在でした。

盛田もまた井深と同じく、彼の作ったガジェット王国を愛してはいました。ただ、彼の場合は同じくらい、ビジネスや、おいしい食べ物や、芸術も愛していた、ということです。彼の後継者となる大賀典雄と同様に、彼はソニー製品と同じくらい、ソニー製品上に流れるメディアに興味があったのです。

この考えがソニーをコンテンツビジネスに導きました。そして、テープレコーダーだけでなくオーディオテープビデオテープも販売することでかなりの利益を稼ぎ出し、次にコロムビアレコードの買収により巨額の利益を生み出していくのです。

さらにはCDプレイヤーCDで大きな利益を得て、ソニーはハリウッドスタジオ取得に向けて動き出しました。ソニーは最初大手スタジオをねらっていましたが、検討の結果、コロンビア映画が、利益の出せるフィルム・アーカイブやTV番組ライブラリー、今後の映画プロジェクトといった要素をちょうど良い配分で持っているという結論に至りました。

問題は、ソニーがこの手の交渉についてノウハウがなかったことでしょう。交渉はロサンゼルス・エンターテインメント業界の猛者に仕切られ、すぐにコロンビア映画買収をあきらめる以外に現実的な選択肢はない、と思ってしまったのです。

が、盛田がある晩、「本当に残念だ。ハリウッドにスタジオを持つことがずっと夢だったんだ」ともらしました。

その一言が、結果的には鶴の一声となったのです。

結局ソニーはコロンビア映画を買収したのですが、そのためにとんでもないプレミアムを支払わされ、数年後には数十億もの減損を出すことになりました。ソニー創業時からの直感的な判断が、30年を経たその当時も健在だった結果です。ただ、そのときには彼は数十億ドルを動かすことができ、数万の従業員を配下に持っていたというだけの違いでした。

その後のソニー、そして現在

井深と盛田は、そういう意味での後継者をもたくさん生み出しました。後継者たちはがむしゃらな技術者像を受け継ぎ、無謀だとか利益が出ないといった周りの忠告も聞かずに突っ走ってしまうのです。でも、井深や盛田を責めることはできません。彼ら二人は、そのアイデアと粘り強さで素晴らしい成功を収め、巨大企業を作り出して、創業したときの小さな会社なら致命的になったであろう大きな失敗にも耐えられるくらいに成長させたのです。

現在、ソニーや他社が作っているガジェットは、単一目的のツールではなく、ソフトウェア、インタラクション、メディア消費のプラットフォームとなっています。

今こそ、技術者集団がのびのびと活躍すべき時なのに、ソニーはなんだか普通の会社になっています。「ソニーをひとことで言うと?」とアメリカで問いかけたのに対し、肯定的な評価もあるものの、夢を感じさせるようなものは少なく、散漫なイメージになってしまっています。

井深と盛田が現在のソニーを見たとき、どんな「ひとこと」があるのでしょうか。

(この記事はジョン・ネイスンの『Sony: The Private Life』(邦訳:『ソニー ドリーム・キッズの伝説』)と、ソニーの歴史ページを参考にしました。)

Joel Johnson(原文/miho)

※ご指摘ありがとうございました、記事修正しました!