米GIZMODOで話題。信念を貫き村民の命を救った村長。

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自分の信念を曲げずに、住人の命を救った村長が米GIZMODOで取り上げられています。

岩手県普代村、三陸海岸沿いにあるあるにも関わらず、3月11日の津波で家が流されるなどの被害を受けることのなかった村です。実際、村は濡れてすらいません。

その理由は、大きな水門です。以前は村長の酔狂で作られたくらいに考えられていましたが、現在では村を守ったものとして感謝されています。村長は幼いころに津波の被害を身を以て経験しており、どうしてもと言い張って作ったものです。高さ15.5mの水門は、建設に12年、かかった費用は35億6000万円です。漁師が多いこの村では、仕事には大きなダメージがあった人も多かったのですが、とりあえず家が無事だという幸せを噛み締めているそうです。

1970年代、この水門の建設は税金の無駄遣いだと批判されました。しかし実際3月11日の大津波はこの水門でないと耐えることができませんでした。行方不明死者合わせて2万5千人の被害がでた大災害で、この村では死者が1人しかでていません。

この水門を作ったのは、和村幸得さんです。戦後から1987年まで、10期に渡って村長を務めています。普代村は東京から510km程北にあり、漁師が沢山住んでいます。白い砂の小さな砂浜があり夏には旅行客が訪れます。このように海と共存している村ですが、和村村長は海が見せる冷たい面を決して忘れませんでした。1933年と1896年にも、大地震によって引き起こされた津波が三陸海岸を襲っています。普代村はその2回の大津波で439人の死者、数百の流された家という被害を被っています。和村村長は幼い頃に1933年の津波を体験しており、自身が書いた回想録「貧乏との戦い四十年」では「阿鼻叫喚とはこのことか。堆積した土砂の中から死体を掘り起こしている所を見た時にはなんと申し上げてよいか、言葉も出なかった」と書いています。彼はもう2度とこんなことを起こさないと誓ったそうです。

1967年、市は15.5mの防潮堤を村と港の間に作ることに決めました。しかし和村村長はそれだけでは満足せず、普代川に水門を作ることも主張しました。高さも防潮堤と同じ15.5mです。議会は初め、これを拒否したそうです。メンバーの1人は「水門を作るというアイディアには賛成だけれど、そこまで高くする必要があるのか」と疑問を呈したそうですが、和村村長は「2度あることは3度あってはいかん」と主張し、建設にこぎつけたそうです。これだけの大きさが必要なのかという懸念や、土地収用の問題など様々な問題をかかえながらも、1972年に建設は始まりました。現村長の深渡宏氏はこのプロジェクトに携わっていましたが、彼ですら疑問を持っていたそうです。これほど大きなものが必要なのかと。

全幅205mのコンクリートの構造体は1984年に完成しました。

3月11日、津波は入り江の砂浜をめちゃくちゃにし、木をなぎ倒しました。しかし、防潮堤のこちら側である村は無事でした。普代小学校は海岸から数分の所にありますが、地震の前となんら変わってないようにみえます。村民の命を守った水門という災害対策は細長い谷という普代の地形に合致していました。他の場所でも導入すれば上手くいくといったものではありません。普代村の主な被害は港です。漁船や漁のための設備が被害を受けており、被害額は38億円です。それから地震の後に船の様子を見に行った村民が1人行方不明となっています。

和村村長は、水門が完成した3年後に村長を退き、1997年に亡くなっています。享年88でした。今回の津波以降、住人達は彼のお墓のお墓参りをしているそうです。彼が村長を辞める時に残した言葉は、「村民のためと確信をもって始めた仕事は反対があっても説得をしてやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産です」と語ったそうです。

村長の置き土産がずんと心に響きますね。

[AP and 岩手日報 and SeattlePI via @Hirokotabuchi]

Kat Hannaford (原文/mio)