フェイスブック裁判で考える、ネット上での言論の自由とは何か

2014.12.05 22:00
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投稿とクリックする前に、その内容についてどれほど人は考えているのでしょうか。

フェイスブック上でのとある発言が裁判へと発展し、今週始め、ついにその問題は最高裁へと持ち込まれました。ここでの判決しだいでは、オンライン上での言論のあり方を今まで以上に考えざるをえないことになります。ソーシャルメディアでの言論の自由に直接関係する裁判ケースが、最高裁で話し合われるのは本件が初めて。言論の自由は、どこまで自由になれるのでしょうか。この裁判はどのようなものなのでしょうか?


***


本件の内容


本件は、Anthony Elonis氏と国の言論の自由を巡る争いである。始まりは、とあるフェイスブックのポスト。Anthonyの妻Taraが、2人の子どもをつれて彼のもとを去った5ヶ月後、彼は以下のポストをフェイスブックにアップする。

「もし今の状況をあの時知っていたら、お前の尻に枕詰めて窒息死させてやる。車の後部座席にお前の体を投げ入れて、Toad Creek(森のような場所)に捨てて、レイプ殺人に見せかけてやるのに」
「息子にハロウィンではMatricide(母親殺しの芝居)の仮装をしろって言ってくれ。衣装がどんなものかわからんけど、たぶんTaraの頭を串刺しにしたやつだろ? :-P」

文末に顔文字があろうが無かろうが、これを知りTaraが怯えたのは理解できる話だ。そこで、彼女はペンシルベニアのReadingの街にて地元警察に保護を求め、裁判所はこれを認めた。その3日後、Anthonyはさらにこの動画を以下のキャプションつきでポストする。(動画の内容は「米国大統領を殺したい」と発言するのが違法だと知っていますか?というもの)

「さらに俺が知ったのは、彼女の家をランチャーぶち込んで放火するのに1番いい場所は小麦畑の裏からだ、逃げ道も確保できるし、サンルームを通して標的がよく見える、なんてようなことをフェイスブックで発言するのは、ものすごく違法だということ。さらに抽象画を見せるのも違法か。(ここで、自身が描いたダイアグラムを披露)アートとは限界を常に超え続けるものだろ。俺は、俺の憲法上の権利のために牢屋にはいるぜ。お前らはどうする?」

その2ヶ月後、2010年の12月、ニューヨーク・タイムズ紙の報道によれば、Anthonyには州間をまたぐコミュニケーションの場(インターネットなどを含む)において他者を脅し傷つけたとして、連邦法の下に有罪判決がくだされた。

Anthonyはその後3年を塀の中で暮らした今、最高裁にて彼の有罪について物議を起こそうとしている。今回のこれが脅しとあたるという裁判所の判決は、ソーシャルメディア上での言論の自由に対して、1つの前例を作ることになる。


前例


ソーシャルメディアでの脅迫などに関して、似たようなケースは過去にもあった。一般的に脅迫とは、ジョークなどではない「真の脅迫」とは、法律によって取り締まることができる。ただし、合衆国憲法修正第一条、つまり言論の自由は例外とされる。

2003年最高裁、Virginia氏とBlack氏の裁判にて、Sandra Say O'Connor裁判官は、「真の脅迫」とは必ずしも犯罪を呼ぶものだけではないと記した。曰く、犯罪に至らずとも大きなダメージを与えることができるというのだ。

「脅迫の発言者は、必ずしも脅迫内容の犯罪を起こす必要はない。真の脅迫を取り締まることで、暴力への恐怖や、恐怖が引き起こす破壊、ひいては実際に脅迫内容の暴力が起きること自体から、個々を守ることができる。この国にある十字架を燃やすという行為の歴史を見ても、行動は時に人を威圧し、暴力のターゲットとなる被害者の恐怖は増すばかりだ」

つまり、Anthonyの発言が実際には彼の意味しないことであったとしても、Taraが恐怖を感じたことに変わりはない。法廷でtara自身が「ストーキングされている気がした」と発言したように、彼女自身と家族の身の安全を危惧していた状態だったことは確かなのだ。

今、最高裁には非常に重要な決断が求められている。Taraへ安心感を与えるべきか、Anthonyの自由を認めるべきか…。


最高裁の決断によるその後


・フェイスブックのポストが言論の自由の下に守られた場合

こちらの場合が結論としてでるだろうという予想する人の方が多いようだ。最高裁は歴史的に見ても、言論の自由を非常に尊重する向きがある。時に胸くそ悪いこともあるだろうが、言論の自由が最大限尊重されるのは理解できる。いかなる理由でいかなる場であろうと、発言の自由に制限を求めるのは、危うい橋であり、憲法の基本を揺るがしかねない。

もちろん、Anthonyの有罪を覆すことは、スタート地点に戻り、ネット上での発言は何がOKで何がダメなのかという問題になる。もっと言えば、何が法的に脅迫にあたるのか…とう話だ。これについて、ノースカロライナ大学チャペル校、法律教授William Marcell氏はTIME誌に以下のように語った。

「社会は、インターネットのあり方について、ネットがどのようなものか、どのように人々に影響を与えるか、ネットユーザー然り、ネットで話される内容然り、まだまだ模索中だ。ネットでの脅迫が対人での脅迫と同等にあたるのか、法廷がそれを考えるのには、まだ時間が必要なのではないかと思う」

電子フロンティア財団(EFF)によれば、ネット上での脅迫も真剣に捉えるべきだが、対人での脅迫と同じ扱いとまではいかないとしている。臨床医と研究者達の調査によると、現実世界、対人状態では普段しないこと言わないことを、サイバースペースでは言いがちだというのだ。

オンラインにおいて抑制がきかなくなってきているというのは、経験としてわかる。匿名性と相手との距離がその大きな要員だろう。EFFは、この脱抑制について、人をより理解しようとすること、個人のアイデンティティに対して多方面から見て、新たな感情を探ることが指針となると説明している。これは、まさにAnthonyが法廷で争おうとしていることではないだろうか。

言ってしまえば、人は誰しも心にもないことを言ってしまうことがある。オンラインならば、怒りのままに言葉をぶつけ、それが相手にどれだけ影響を与えるか考えが及ばないことがより多くあるのだ。


・フェスクブックのポストが「真の脅迫」にあたる場合

この場合の判決が、ネット脅迫に苦しむ者達にとっての勝利となる一方で、ネットでの言論の自由が脅かされることにはならないだろうか。その影響は「真の脅迫」だけでなく、どんな発言にも及んでしまうのではないか。TIME誌はこれについて「Anthonyの要求が受け入れられなければ、アーティストは、脅迫とみなされる可能性のあるものはどんなものも発表できないという窮屈さを抱えることになる。これは、危ない橋だ」と語っている。

Anthonyの言葉だけを聞くならば、彼が表現した感情はアートの一種だということになる。法廷では、彼は実際に妻Taraを傷つけるつもりはまったくなかったと、誰を脅迫するつもりもなく、自分自身に対するセラピーのようなものだったのだと語った。言い訳にすぎないとも言えるが、まさにこれこそが言論の自由が守っていることなのだ。アメリカ自由人権協会は、以下のように述べている。

「発言者の意図を汲み取らずに法が発言を禁止すれば、率直で熱意のある言論に対する自由を侵すリスクがある。言うならば、言論の自由によって守られている発言とそうではないものの境界線は曖昧だ。政治やアート、イデオロギーな発言は、自分の言葉が勘違いされないか、その可能性を避けるために発言者自身が意識をすべきかもしれない」

つまり、意図しなかった、ある意味無害の脅迫へ罰を与えるという前例を作れば、我々が今まで謳歌してきたネットでの言論の自由を脅かすものになるということだ。


判決


最高裁の結論がでるのは、来年2015年のこと。最高裁に場を移した争いは、まだ始まったばかりなのだ。インターネットの未来のあり方について、最高裁の判決を聞くのは、来年の5月から7月頃になるだろう。


***


「真の脅迫」の定義、対人とネットでの脅迫に違いはあるのか、言論の自由と個人の安全はどちらが優先されるべきなのか…。この裁判では、実に難しいことばかりが争点の鍵となっています。これは、判決しだいで、ネット史に大きな前例を作ることになる裁判なのです。アメリカだけの話ではなくなっていくのでしょう。


Ashley Feinberg - Gizmodo US[原文
(そうこ)

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