映画『リング』は現代のスクリーン依存に対する警告だった?

映画『リング』は現代のスクリーン依存に対する警告だった? 1

ホラーなめるな、という警告でもある。

日本でも社会現象になるくらいヒットした鈴木光司原作、中田秀夫監督のホラー映画『リング』。筆者は少し遅れて古い小さなビデオ再生機能付きブラウン管テレビで鑑賞したのですが、どうせ作り物だし大したことないだろう、と鼻歌交じりで鑑賞したら腰を抜かすほど怖い思いをしました。

2002年、『リング』は海を超えてハリウッドで『ザ・リング』という名でリメイク。原作ではなく角川映画の『リング』のストーリーをベースとしたもので、貞子にあたるサマラのテレビ飛び出しシーンも登場します。

多少の設定の差はあれど、大部分の流れは似ている『ザ・リング』ですが、このハリウッド版は現代のスクリーンへの依存に対する警告だった、とThe New Yourk Times(以下TNYT)が考察しています。

まず、コラムの内容を紹介する前に、筆者が気になった、なぜ2002年の『ザ・リング』が名指しされていて、オリジナルの日本産『リング』は無視されているのか、を考えてみたいと思います。この点を探るべく、『リング』と『ザ・リング』を改めて見比べてみました。

1998年『リング』

原作の小説は1991年に出版されています。デジタル発展の歴史を見ると、1989年にDDIセルラー(現au)が初の超小型携帯電話機を発売し、それに対抗したNTTドコモがmovaを発売したとありますので、小説版『リング』が執筆されていた頃は一人一人が携帯電話を持っているなんて時代ではありません。まして、インターネットも一般的ではありませんでした。そのため、劇中には公衆電話、資料探しには資料室の新聞といったものが登場します。

また、『リング』は濡れた髪の毛が体にまとわりつくようなベットリ感覚のホラーで、這いずる貞子にしても水でふやけ、腐った肉を感じさせるものでした。

2002年『ザ・リング』

公開時の2002年、携帯電話は当たり前、インターネットも現在のような洗練さはないものの、当然のように使われていました。劇中には呪いのビデオテープの他に、マンションの住人がそれぞれ別のテレビ番組を見ていたり、メディア選択の自由を意味するシーンがさりげなく登場します。

そして、サマラは貞子よりも断然デジタルを意識したモンスターに描かれています。這いずりシーンでもサマラの体にノイズがかかったり、瞬間移動したり、むしろ肉体を有する怪物ではなく、あくまでデジタルだけど人を殺す力を持つモンスターであるかのようです。

TNYTのコラムには次のように書かれています。

『ザ・リング』の冒頭で女子高生がテレビを見ながら退屈そうに言います。

「テレビなんて下らない」

「じゃぁ変えなよ。私はなんでも良いから」

今の時代、私たちは何を見たいか、何を聞きたいかを選択できます。録画して好きな時間に好きな場所で見る、リアルタイムで内容を呟く、共有するのも可能です。

そして、目にした、耳にしたものは、望む望まないに関わらず私たちの中に蓄積されていくのです。(人を死に至らしめる)サマラはフィクションのキャラクターですが、私たちがなにげなく消費しているメディアにも、恐るべき力が宿っているのです。

今考えると、サマラのスクリーンの垣根を超えて這いずりながら忍び寄る姿は、現代の私たちのスクリーン依存に対する警告だったのでしょう。

サマラの犠牲者の死の表情はスマートフォンのアプリでいとも簡単に再現できるようになりました。手のひらの中でグロ映像を見たり、レイプシーンをライブストリームすることも、政治家のスピーチをリアルタイムで見ることも可能です。そして、そんな時代に生きる私たちは、『ザ・リング』の中の人同様、見たものを他者と共有しメディアの重圧から少しでも逃れようとしているのです。

私たちは当たり前のようにニュースや画像をシェアしていますが、考えてみれば呪いのビデオのコピーと同じ行為。そして、取り憑かれたようにスマホ片手にメディアを吸収しつつ生活している現代の私たちは、サマラの呪いにかかった人々となんら変わらないのかもしれません。

呪いで飛行機墜落。ハリウッド版『リング』の最新作『リングス』本編映像

image: Paul Hawthorne/Getty Images Entertainment/ゲッティ イメージズ
source: The New York Times

中川真知子

あわせて読みたい

    powered by CXENSE