本編で削除された幻の章を、本記事にて独占掲載!
2016年に刊行された、巨大ロボを持つ日本がアメリカを支配する小説『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』。これの続編である『メカ・サムライ・エンパイア』が2018年に登場し、そのさらに続編にして、完結編の『サイバー・ショーグン・レボリューション』がやっと! 2020年9月17日にハヤカワ文庫SFから刊行されます。
9/17発売です。今回もカバー&表紙のメカが素晴らしい!『サイバー・ショーグン・レボリューション』刊行! 〈ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン〉シリーズ完結篇|Hayakawa Books & Magazines(β) @Hayakawashobo#早川書房https://t.co/ibVw7h2c1k
— 早川書房 翻訳SFファンタジイ編集部 (@hykw_SF) September 3, 2020
日本で受賞もした名作SF
作者はピーター・トライアス氏。本作はSF小説の巨匠フィリップ・K・ディックが書いた、『高い城の男』に影響された「心の続編」で、独自の世界観を展開してきました。
さらに『ユナイテッド~』は、日本で2017年度の「本屋大賞」にて翻訳小説部門の第2位、そして「第48回星雲賞星雲賞」では海外長編部門(小説)を受賞。作者自らが来日し、ドンブラコンLL(第56回日本SF大会)授賞式に参加したこともありました。
Today was really special-Donburacon has been amazing & was so honored by the Seiun & all the fans I met! So happy to share tday w/ @ccmndhdpic.twitter.com/3pxchvVWuy
— Peter Tieryas (@TieryasXu) August 26, 2017
SFやロボットがお好きなら、要チェックのシリーズです。
あらすじ
第二次世界大戦以来、アメリカが日独に統治されている世界。「日本合衆国」のメカパイロット守川励子は、政権打倒をめざす軍人の秘密組織〈戦争の息子たち〉に参加する。大日本帝国の仇敵ナチスと癒着した日本合衆国総督が許せなかったのだ。革命は成功し、新政権が樹立された。だが、正体不明の暗殺者ブラディマリーのテロ攻撃により、〈息子たち〉の会員たちが次々殺されていく。励子は特別高等警察の若名ビショップとともに、ブラディマリーを追うことになるが…
Source: (C) Hayakawa Publishing Corporation All rights reserved. via HAYAKAWA BOOKS & MAGAZINES
2種類の本が発売される
今回の『サイバー・ショーグン・レボリューション』は、ハヤカワ文庫SF版で上下巻に分かれ、新☆ハヤカワ・SF・シリーズ版では1冊にまとめられます。
後者には、オマケのスピン・オフ短編が収録されているとのこと。どれも揃えたくなっちゃいますね。
新⭐︎ハヤカワ・SF・シリーズ版には、私にとって大切な物語、久地樂と昭子のさらなる冒険を描く『ユナイテッド・ステイツ・オブ・久地樂』からの抄録を収録。久地樂が世界中で騒動を巻き起こすコメディです。 pic.twitter.com/M6Dyvmn6z2
— Peter Tieryas (@TieryasXu) September 3, 2020

そして表紙や挿絵は、1作目から引き続き、『Halo 4』のコンセプト・アートなどを多数手掛けたイラストレーターのジョン・リベルト氏が担当しています。大迫力のアートワークも必見です。

作者によるコメント
2018年から執筆を開始した本作ですが、実際2020年までに著者が住むアメリカでもさまざまな出来事が起こりました。最も顕著な例が新型コロナウイルスによるパンデミックでしょうか。トライアス氏いわく、直接的には描写していないものの、そうした現実の出来事をエッセンスとして少し採り入れた部分もあると話してくれました。
私がこれを書いている今、カリフォルニアは大火に襲われている。煙と空気汚染が酷く、この三週間は家の外に出られない状態が続いている。疫病の勢いは全く衰えておらず、死者数の総計は20万人に近づいている(この文章が皆さんの目に触れる頃には、その数を上回っているかもしれない)。株式市場は空前の景気だと言われている割には、私のお気に入りの地元レストランは次々と廃業しているし、失業率もこれまでにない高さだ。ニュースを見ていると、何が現実だか分からなくなる。
もともと私は、『サイバー・ショーグン。レボリューション』出版の折には、中国にいる家族のもとを訪れる途上で日本に寄るつもりでいた。だが不幸なことに、伝染病流行のためキャンセルせざるを得なかった。重く垂れ込める煙に閉じ込められ、ひどい頭痛に悩まされながら、家族と共に引きこもっていると、人類にうんざりした地球が怒りを爆発させているのではないかという気にさえなってくる。そんな中で、私は日本の読者に感謝するための文章を書いている。この苦しい時に、『サイバー・ショーグン・レボリューション』の出版を喜び、期待してくれる読者やファンたちの反応を見るのは、私にとって大いに意味を持つことだった。
三部作を閉じる作業を続けながら、私はアメリカで起こっている現実に影響を受けざるを得なかった。国家が滅ぶ時には、どんなことが起こるのか? どのような過程を経ていくのか? ゆっくりと、あるいは、突然に? 国民は滅亡を意識することがあるのか? それとも、限られた範囲内での生活はいつもと変わらぬままなのか? 私はアメリカを愛している。だが、現在全土で起こっていることを見ると、辛くてたまらなくなる。心配した海外の友人たちが、これまでになく頻々にメールをくれる。大丈夫かい? と。以前はこう返信していた。うん、大丈夫だよ。ぼくは大丈夫。OK。OK。OK。だが、こうして痩せ我慢をすることは、たとえ言葉の上だけとはいえ、変革に必要な現実を覆い隠すことになるような気がしてきた。みんなが’OK’と言っている場所では、革命など起こらないのだ。

『サイバー・ショーグン・レボリューション』は、もうこれ以上は我慢できない、と考える兵士たちの一団についての物語だ。彼らはすぐにでも変革をもたらしたいと考えている。彼らの指導者である多村大悟総督はあまりにも腐敗し、国家にとってあまりにも有害な存在となっており、あろうことか自らの権力を維持するために敵国と共謀している。「戦争の息子たち」と呼ばれる革命グループは、救国のために真の変革をもたらしたいと望んでいるのだ(彼らについての説明は、この短編の中でもされている)。私は『サイバー・ショーグン・レボリューション』を何稿か執筆したが、それらはそれぞれ、かなり違ったものとなった。語りたいことがたくさんあったのだ。U.S.J.の宇宙(ユニバース)を扱うのも、これが最後だと分かっていたから。歌にもあるように、別れを告げるのは辛いこと、なのである。一作目、二作目に登場した、ほとんど全てのキャラクターたちの、その後を描きたいと思った。もちろん、そんなことをすれば巨大な本が出来上がってしまうわけで、エース出版の私の担当編集者は、プロットをすっきりとさせるために、余計な部分は思い切ってカットすべきだと提案してきた。
最終的に変更無しで残ったのは、基本的には二人の友人たち、守川励子とビショップ若名の物語だということだ。周囲の全てが崩壊していく中で、二人は共に戦い続ける。ビショップは第一作『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』と関連のある人物だ。悲劇的な登場人物、若名将軍の息子なのである。守川大尉はナチスによって酷く傷つけられたことで、多村総督の指導力に疑問を持ち、その結果、変革を求めるようになる。
作家として私は、登場人物たちを都合よく動かそうとすると大抵失敗し、登場人物たちに進むべき道を示してもらうほうがうまくいくものだと、常に感じてきた。その意味で、メカ・サムライの帝国を行く私の最後の旅が、前作でのマックとの旅、さらにその前のベンと昭子との旅とは全く違ったものとなったことに、大きな喜びを感じている。
何よりも感謝しているのは、これらの三冊のおかげで多くの素晴らしいファンや読者たちと出会えたということだ。私にとってのヒーローたち、私の成長に深い影響を与えてくれたクリエイターたちにも会うことができた。三部作は私にとっての橋であり、終わらせるのは本当に悲しい。ブラックホールの大いなる謎のひとつに情報パラドックスというものがある。ブラックホールに捕われた素粒子はどうなってしまうのか? ただ単に消滅することはあり得ない。それは物理学の法則に背くからだ。何か別の形を取ることになるはずだというものだ。
このシリーズは終焉を迎えるが、語られた物語が、訴えられたメッセージが、その中の登場人物たちが、読者の心に残り続けることを、私は希望する。一緒に旅をしてきてくれた皆さんにもう一度感謝したい。この完結編を楽しんでいただけることを心から望む。
そしてご本人登場
またトライアス氏は、ギズモード・ジャパンを見てくれたファンにメッセージを送ってくれました。カリフォルニア北部にいる彼は、山火事による煙が外を漂っているため、Zoomを使ったとのこと。
やあ皆さん。私はシリーズ最後の作品『サイバー・ショーグン・レボリューション』をお見せできることにとても興奮しています。ギズモード・ジャパンには独占的に本編からの抜粋を掲載(下記参照)しており、本編がどんな物語なのかが分かるようになっています。そこには平行世界の歴史、政治的スリラー、そしてメカによる戦闘がミックスされています。これまでたくさんのファンや、読者の方々とお会いできたのは光栄の至りです。近い将来、日本を訪れて直々に皆さんとお会いしたいと思っています。どうぞ本作を楽しんで。お時間どうもありがとう。ではまた近いうちに。
帯のコメントはナシ?
ちなみにですが、第1作の帯には『紙の動物園』の著者で、『三体』の翻訳を担当したケン・リュウ氏が、そして第2作には『メタルギアソリッド』シリーズや『デス・ストランディング』の小島秀夫監督がコメントを寄せておられました。ですがどうやら、今度は著名人のコメントはなさそうです。まぁ本編とは関係ない部分なんですけどね。
この3部作は、ストーリーごとに主役が異なるものの、誰かと誰かが時を超えどこかで繋がっています。そこを勘繰りながら読むのも楽しみのひとつとなっています。壮大な物語がいよいよ終演を迎える『サイバー・ショーグン・レボリューション』。9月17日(木)は朝イチで書店へ行くべしです。

本編からカットされた章を独占掲載
最後に、小説に載せることができず泣く泣く編集で削除されたシーンを、トライアス氏のご厚意により、ギズモード・ジャパンで特別に掲載させてもらえることになりました。もちろん本編と関係していますが、短編小説としてもお楽しみいただけます。
「守川励子中尉がバーでの大乱闘の後、ナチスをボコボコにしたあの時のこと」
ピーター・トライアス(鬼塚大輔訳)
守川励子中尉は見知らぬ場所で目覚めることがよくあった。過去の戦闘の記憶に悩まされ、取り憑かれていたからだ。特に多くの戦友の命を奪った、ナチスのカンサス攻撃の記憶にだ。酒を飲めば個人的なトラウマのズキズキする痛みを幾分和らげることができた。経験してきたことをあまり思い出さずに済んだのだ。バークレイのアパートに一人でいるのは嫌だったので、軍人仲間を伴って飲みに出ることが多かった。飲みに行く場所は夜毎にまちまちだった。そういうわけだったので、どこだからわからないホテルの部屋である朝目覚めた時も、ことさら驚くことはなかった。バークレイ士官学校の同級生だったダニエラ嶽見がそこにいたことには驚いたのだが。
「ダニエラ?」本当に彼女なのだと確かめようとするかのように目をパチパチさせながら、励子は尋ねた。「こんなとこでなにしてるのよ?」「昨晩のことはなんにも覚えてないの?」 励子は首を横に振った。「あんた喧嘩を始めて、何人も叩きのめしちゃったのよ」ダニエラは言った。「そうなの?」励子は訊いた。「そいつらは誰だったのかしら?」「『夜間アルコール禁止令廃止を求めるナチス友愛会』の支部長をしてるライル・シェレンバーグと、やつの取り巻きよ」「ナチスですって?」ドイツ領アメリカからバークレイへの訪問者がいないことはなかったが、稀だった。「ここはどこ?」「ボーダータウン88よ」ダニエラは答えた(省略してBT88と呼ばれるのが普通だった)。皇国が第三帝国と共有している非武装地帯である沈黙線の内側にある主要都市だ。「どうして殴ったりしたのかしら?」バークレイからかなり離れた街だったので、どうしてそんなところに行ったのか、どうして喧嘩など始めてしまったのかを知りたいと、心から思ったのだ。拳を奮っていた時の記憶がゆっくりと朧げに蘇ってきた。「あんたが奴らの一人の上に飲み物をこぼして、あんたたちが通り道を塞いだせいでこぼしたんだから、謝れって言ったのよ」ダニエラは答えた。「で、奴らのうちの誰かが無礼なことを言って、あんたはそれが気に入らなかったのね」「奴らのうちの誰かが言った無礼なことって?」ダニエラは彼女に教えた。人種差別的、女性差別的、障害者差別的な言葉だった。「そんなこと言われたなら、悪いことしたかもなんて思わなきゃよかった」励子はそう言って、両掌で顔を覆った。二日酔いがこんなにひどくなきゃいいのにと考えながら。「そのライル・シェルバーグってやつを、私どれくらいひどく殴った?」励子が訪ねた。ダニエラは励子の右腕に目をやった。ナチスのカンサス攻撃で負傷したのちに装着された義手だ。「歯はほとんど残ってないし、退院まで数日かかるでしょうね」「国際紛争を避けるために誰かエライ人があんたを送り込んできたってことかしら?」それをあえて認めようとはせず、ダニエラはただ言った「二、三日中にバークレイに戻った方がいいと思うの」「異議なし。で、どうやって?」ダニエラはホテルの部屋のクローゼットのところまで行って扉を開いた。巨大なピンクのウサギの着ぐるみが入っていた。「勘弁してよ」励子は言った。「やつらと戦った方がマシよ」「これ以上厄介ごとを起こさずに立ち去ってほしいと、地元の警察が丁重に頼んできたわ。平和を維持するための取り決めをナチスとの間に結んでるからって」「それは、そうでしょうね」自分が政治的に厄介な事態を引き起こしてしまい、警察としては穏便に解決したいと思ってるのだろうなあ、と励子は考えた。頭がガンガン痛んでいなければ、励子はもっと詳しい話を聞きたいと思っただろう。
そういうわけで、あらゆる本能がやめておけと言っているのに逆らい、励子はピンクウサギの着ぐるみに入って、ダニエラの後について通りに出た。着ぐるみの中は蒸し暑く、彼女は汗まみれになりフラフラした。湿気のせいで二日酔いの気持ち悪さが何百倍にもなった。着ぐるみの中で嘔吐しないように、励子は何度も立ち止まらねばならなかった。目穴からは外がよく見えず、首が痛くなった。プライドも傷ついていた。彼女は戦いから逃げ出したくなかったのだ。「このウサギ、どこで手に入れたのよ?」励子はたずねた。「静岡のサーカスが巡業に来ていたの。友達が大道具係をしててね。コスチュームを二つ借りたのよ」「私たちサーカス団に加わるの?」「地下鉄に乗るのよ。駅までは遠くないわ。そこからは空港まで一直線」BT-88にある商店の名は、ドイツ語もあれば日本語、英語のもあって、それらが混ざり合い奇妙に見えた。ドイツ領アメリカから逃げてきたアジア系移民で、街の商業地域は賑わっていた。人種によって街の縄張りが分かれていて、店の看板の文字がどの国の言葉で書かれているかで、だいたいわかるということを励子は本能的に見てとった。スキンヘッドに凝ったサングラスをかけたアーリア人のグループが、通りを進む二人を見つめていた。クリスマスのような電飾で飾られピカピカと光っている、彼らの見かけ同様にけばけばしいパイクに跨っている。「あいつらなの?」ダニエラのものと繋がっている電卓を通して励子は尋ねた。汗が拭ければいいのになと思った。「どうやら、そうみたい」その辺りには数百人もの通行人がおり、新鮮な果物を売る市場や、偽造ブランド品で荒稼ぎする雑貨屋があった。チェーン店に勤めているらしい男が、不愉快な大声で通行人に呼びかけている。「痩せたくないかい? うちのロボット・バラサイトを買えば、1ヶ月もしないうちに理想の体重になれるよ!」バブルを体験してみようというウリミコ文句があらゆるところから聞こえてきた。ユーザーが他人の記憶をダイレクトに経験できる電卓プログラムのことだ。もともとの記憶の持ち主が感じた化学刺激を再現するために合成される、エンドルフィンやホルモンの悪性中毒になってしまったユーザーを、励子は大勢知っていた。バブル体験センターの中で最大のものは「昨日の黙示録」と呼ばれており、カジノのように見える場所だった。夜明けとともにネオンサインは消灯していたが、中は眩い光と様々な騒音に満ちていた。「この街でバブルがこんなに人気だとは知らなかったわ」「ナチスが変態じみた経験を売るようになって、最近人気が爆発したのよ」ダニエラが説明した。「ナチスとバブルにどんな関係があるの?」「バブルをやってみたことある?」「ないけど」励子は答えた。「一度連れてってあげるわ。大抵は罪のないお楽しみよ。世界のどこにでも行った気分になれて、とてもリアルに再現してくれるの。だけどナチスが違法な意識の流れと暗い記憶を売り捌くようになったのね」「暗い記憶って、どんな?」「昨日の黙示録」の中を通り抜けながらダニエルは、ナチスは身寄りのない人を獲物にしたのだと話してくれた。彼らは犠牲者の電卓をスキャンして、大物の知り合いがいないことを確認した。
この国境の街には根なし草のような人々が引き寄せられていたので、知り合いなどいないのが普通だった。ハンターと呼ばれる人物が餌となる。ハンターが男性か女性かは獲物しだいだった。ハンターは一芝居打って獲物を人気のない場所に誘い込む。待ち受けていたナチスが獲物を誘拐し、次の数週間、時には数ヶ月かけて、獲物の人間性を破壊し尽くすのだ。「犠牲者と加害者、両方の記憶の流れを売るのよ」ダニエラは説明した。「同じ化学刺激を受けるわけ。同じ恐怖を感じたり、同じエクスタシーを感じるの。被害者は自分の記憶が記録されているなんて知りもしないから、純粋な感情になるのよ。連中はそんな気味の悪いシナリオをとびきりの高値で売り捌いているの」「バブルの会社は、ただ指を咥えて見てるってわけ?」二人が外に出たところで励子は尋ねた。「なんとかしようとはしたみたいよ。でも商品は全て裏機界で取引されてるの。追跡が難しいのよ。ナチスはいろんな人を買収しているしね」「政府はそのことを知っているの?」励子は尋ねた。「もちろんよ。詳しいことはわからないけど多村総督が就任して以来、役人は金でどうにでもなるようになったことは確かね。そもそもやつらが、どこからその技術を手に入れたと思う?」「どこからなの?」「軍の尋問と服従化の実験の中で開発されたのよ。洗脳に役立てるために記憶を記録したりとかもね」ダニエラは答えた。「ほら、あっちを見てごらんなさい」通りの向こう側で、若い女性が年配の男に話しかけていた。「私が正しければ、彼女はハンターの一人ね」「もっと近くから見たいわ」「よりによって、こんな時に?」「バブル誘拐を目撃するチャンスなんて、二度とないでしょ?」励子はダニエラの答えを待つことなく、胡瓜や果物ジュースを少しでも安く手に入れようと値引き交渉に夢中な人々の群れの中へと突っ込んでいった。ハンターは目立たないように獲物を捕らえようとしていた。控えめに振る舞いつつも、控えめすぎでもなかった。少なくとも励子の目には、そう見えた。ハンターと獲物はやがて路地裏へと入っていった。励子はウサギの着ぐるみとしては精一杯の速さで、二人の後を追った。人間の津波の間をモフモフの球体が突っ切っていくようなものだった。彼女が路地に着く頃には、二人の姿は消えていた。「残念だったわね」とダニエラ。「仕方ないわ。あの男性はどうなるの?」「先週のバブルの売り上げと、どんな変態行為に一番需要があるかで決まるわね」励子は群衆の方に目をやり、バブル中毒で人生を台無しにした高校時代の旧友のことを思い出した。怒りで体が震えた。「そろそろ行かないと飛行機に間に合わないわよ」ダニエラが言った。「裏道を行きましょう」進んでいるうちに、二人は先ほど目撃したばかりの初老男性を見かけた。だがハンターの頭に銃を突きつけているのは彼の方だった。怒りで顔を紅潮させ、目に涙を浮かべている。紫色のレザー・ジャケットを着込んだ(しかしベルトのバックルにはしっかりと鉤十字が刻んである)三人のアーリア人に取り囲まれていた。ナチスのうちの二人は軍刀を手にしていて、もう一人は拳銃を構えていた。三人は緊張で身を固くしていたが、そのうちの一人が路地に入ってきたウサギの着ぐるみ二体に気づいた。「ありゃ一体なんだ?」彼は叫んだ。その場の皆が二人の方を見た。励子の視線は彼らの背後のオートバイに引き付けられた。彼女は手を振って尋ねた。「地下鉄の駅へは、どう行けばいいのかご存知?」獲物はナチスが戸惑った一瞬を逃さず、三人組に発砲した。二人には命中したが、最後の一人は外し、その三人目が撃ち返した弾丸は獲物の肩を撃ち抜いた。獲物はよろけたが、体勢を立て直し、ハンターの体を掴むと頭に銃を突きつけた。「あんたたちはナチスなのか?」彼はウサギたちに叫んだ。「私がナチスに見えて?」励子は聞き返した。「私たちはサーカス団のメンバーなんだけど、公演に遅れそうなのよ」彼女は男たちの方へと歩み寄り、ウサギの被り物を脱いだ。「なんの騒ぎ?」男が答えた。「奴ら、俺の弟を誘拐して何週間も拷問しやがった。弟の感情を記録して機界で売りやがったんだ」怒りの涙が、みるみる彼の両眼を満たした。「あいつは家族には皇国を旅したいと言ってたんだが、行方知れずになった。警察に届けてもなにもしてくれなかった。弟をやっと見つけた時には、口がきけなくなっていたよ。奴らは弟におぞましいことをした。だが、それを全部記録したことは、それ以上に我慢できない。うちの両親は錯乱してしまい、自分たちのせいだと言って、おのれを責めるんだ」「弟さんのこと、本当にお気の毒だわ」ハンターが言った。本気で言っていると思わせようと必死だった。「お前がどう思ってるかなんてどうでもいい」彼は言った。「それで弟の苦しみが消えるわけじゃない!」「なにが望みなの?」励子が尋ねた。「復讐だ」男は答えた。「ご存分に」励子はそう言うと、ウサギの被り物を地面に落とし、着ぐるみのジッパーを開いた。「なにしてるんだ?」男が尋ねた。「この着ぐるみ暑すぎて」着ぐるみを脱いだ彼女は、彼らの方へと歩み寄った。「銃を一丁もらってもいいかしら?」ハンターも獲物も、まだ立っていたナチスも、訳がわからないといった様子に見えた。倒れたナチスの一人はまだ身悶えしていた。励子は彼の撃たれた方の肩に蹴りを入れ、軍刀を手にとった。軍刀は電流を放出できるように強化してあった。彼女はもう一人倒れていたナチスからも軍刀を奪い、ダニエラに放ってよこした。着ぐるみの大きなウサギの手ではうまくつかめず、ダニエラは軍刀を地面に落としてしまった。励子はナチスの一人が乗っていたオートバイを指差した。「あれももらっていくわね」励子はバイクに飛び乗った。ダニエラも着ぐるみを脱いで、急いでもう一台のバイクに跨った。「幸運を」励子は男に言った。介入して、なんなら手を貸したいとさえ思ったのだが、お節介だと思ったのだ。「このまま行っちまうのかい?」男が尋ねた。励子はその質問を無視して男に言った。「このことは後でバブルするわね」通話できるように電卓を装着したヘルメットを被ると、励子とダニエラはその場を走り去った。
「今度こんなことがあったら、なにをするつもりなのか、あらかじめ警告しておいてくれる?」ダニエラが電卓を通して尋ねた。「勢いでやっちゃったの」励子は詫びた。「こんなひどいことがまかり通ってるなんて」「多村が総督になるまでは、こんなことは許されてなかったわ。彼のせいで、利益になればこういう暴力も当たり前という風潮になったのよ。バブルの裏商売では、多村の腹心の一人が、たっぷりと甘い汁を吸っているはず。あれ、私たち、どこに向かってるの?」「警告しとくわよ」「は?」ダニエラは数人のナチスがこちらに走ってくるのに気づいた。仲間の助太刀をするつもりだろう。励子は彼らの側を走り抜けながら軍刀を抜いた。電流量を最大にして刀身を彼らに打ち付けて地面に叩き伏せた。さらに数人が真っ直ぐに迫ってきた。励子の持った軍刀が地面を擦り一筋の火花を煌めかせた。彼らに近づいた励子は軍刀を一閃させ、刀身を叩き込まれた二人のナチスの体が宙に舞った。「後ろ!」ダニエラが叫んだ。三台のバイクが二人を追いかけてきていた。「昔を思い出すわね」励子がダニエラに言った。ダニエラはため息をついた。「私たち、目立たず行動することになってるのに」「もう遅いわ」と励子は答えた。「あなたの上司には、私の責任と言ってね」「酒絡みのトラブルで第三次大戦を引き起こした責任のこと?」「戦争なんてもっとつまらない理由で起こってきたものよ」励子がアクセルを吹かして四台の車を追い抜き、抜かれたドライバーたちはクラクションを鳴らして抗議した。二人のバイクはトンネルに入った。追手たちとの間にはまだ距離があったが、いつ縮まってもおかしくはないなと励子は思った。励子はダニエラに尋ねた。「私と同じことを考えてるんじゃない?」「いいえ」とダニエラは答えた。それから強調するために付け加えた。「ぜんっ、ぜん、考えてない」「奴らから逃げ切るには、これしかないわ」励子が反対車線に移動したので。ダニエラも同じようにするしかなかった。二人は他の車両と逆方向に走りだした。追手のバイク一台が自動車と衝突しそうになり、ガードレールの方へと方向を変えてそのままぶつかり、乗っていた男は数メートルはじき飛ばされた。励子はサイドミラーでその様子を見ながら、正面から向かってくる自動車を、ひらりひらりと左右に避け続けた。別の追手のバイクが近づいてきて、彼女に棍棒を撃ち下ろしてきた。彼女は軍刀でガッチリと棍棒を受け止めた。一台の車が真っ直ぐに彼らに向かってきた。励子はバイクをぐいと右に傾け、ギリギリのところで車を避けた。もう一台のバイクは、それほどツキがなく、自動車と正面衝突した。車のエアバッグが膨らんで、乗っていた者たちを守った。励子は元いた車線に戻った。鉄の棒を持った第三の追手が迫り、励子は戦う覚悟を決めた。いよいよ衝突というときにダニエラが銃を抜いて発砲した。追手のバイクは道路の外へと姿を消した。「お見事」励子は言った。「なんで私たち二人が任務に出ると、いつもこうなっちゃうのかな?」「認めなよ。楽しんでるくせに」その時、さらに八台のオートバイに追われていることに、二人は気づいた。励子はバイクのスピードを上げた。最高速度になるまでアクセルを踏み込み、次々と車を抜いていった。アドレナリンと追跡の熱との組み合わせで、二日酔いはすっかり消えていた。顔にあたる風の感触が心地良かった。ゴツゴツしたコールタールの地面を進むタイヤの回転に負けないくらい、彼女の心臓の鼓動も激しくなっていた。ドライバーたちは苛立って彼女に対してクラクションを鳴らしたが、全く気にはならなかった。街の腐敗した役人たちのために、厄介な騒ぎを引き起こしてやったと思うと、むしろ気分が良かった。
地面が揺れているのに気づいた。最初はバイクの故障かと思った。しかし、その時ダニエラが言った。「別のお友だちだわ」「なんなの?」「バイオモーフが追ってきてるのよ」励子がふりかえってみると、確かに馬鹿でかい化物が彼らに迫っていた。バイオモーフはナチスのバイオメカよりは小型で、メカのパーツもその体に装着されてはいなかったが、それでも7メートルはあるようだった。狂戦士たるべく設計された、敵に可能な限りのダメージを与える巨大な獣だった。二人に迫るこいつは、自らが進む地面をバリバリと引き裂いていた。いくつもある頭と腕の肉は生きているかのようで、目の前にあるあらゆるものを貪り食おうとしていた。「あれはクラゲね。操縦しているのはライル・シェレンバーグの兄のライアンのはずよ」「私を探してるクソ野郎の弟ってこと?」「そうよ」ダニエラが保証してくれた。「ドイツ人のナチ野郎に負けないくらい厄介なのは、アメリカ人になりたがるやつだけよね」数台の車を踏みつぶしたバイオモーフは、ヘルメットの通信機能を二人に繋いだ。「お前!!」電卓の通信装置からパイロットの怒鳴り声が聞こえてきた。「弟への仕打ちを償ってもらうからな!」「どこかでお会いしたかしら?」励子は尋ねた。「生意気なバカ女が。お前を逃すとでも思ったか? 街中の手下に見張らせてたんだ」「そんな人気者になっていたとは知らなかったわ。どんな結末になると思う?」と尋ねながら、彼女は一気にアクセルを踏み込んだ。バイオモーフは猛スピードで二人を追っていたので、このままではすぐに追いつかれてしまいそうだった。「殺す。さもなければ跪いて、弟の許しを請わせてやる」 励子はアホらしそうな笑い声をあげた。「私に言わせれば、あいつはあんな目にあって当然よ。弟が苦しんでる男に会うのも、今日もはもう二度目だし」ライアンは彼女を口汚く罵った。励子は彼の音声を切ってダニエラに尋ねた。「どんな方法が残ってるかしら?」「援軍を呼んだわ」「援軍がつくまで、どのくらいかかる?」「ちょっと待って」ダニエラは言った。「不二本大佐」と呼びかけるダニエラの声を励子は聞いた。「援軍が必要です」ダニエラは数秒耳を傾けていた。そして「メカが助けに来てくれるまで、少なくとも十分はかかりそうね」「十分ですって?」励子は言った。それでは手遅れだ。バイクを走らせる励子の目に飛び込んできたものがあった。高速道路の向こうに古いビルが固まって建っていた。「あれはなに?」「遺棄された鉄工所ね」ダニエラが答えた。「大昔の土地計画の名残だわ。化学薬品のせいで撤去できないのよ」「どんな薬品?」「毒性の強いやつ」励子には訊く前からわかっていた。二人は高速の出口へと向かい、そこでさらにスピードをあげた。バイオモーフは追ってくる。
鉄工所には朽ち果てかけたいくつもの古い建造物があった。酸の悪臭がヘルメット越しに漂ってきて気分が悪くなった。ほとんどの廃墟がそうであるように、そこには動物も、昆虫さえも見当たらなかった。ドイツ語で書かれた文字で消えかかっていたが、誰かがその上に日本語で落書きをしていた。異様に暑く、ブーンという耳障りな音が一帯を満たしていた。たっぷりと薬物が貯蔵されたサイロが、処理されぬまま、いくつも立っていた。バイオモーフがここで無茶な暴れ方をすれば、危険な目に遭うことになるだろう。鉄工所の敷地に入る前にバイオモーフが動かなくなったところを見ると、ライアン・シェレンバーグも、どうやらその事実に気づいたようだった。「援軍が到着するまで、ここで待とうよと言いたところだけど」ダニエラが言った。「あんたはそれじゃ、おさまんないわね」「よくわかってるじゃん」励子は笑いながら答えた。彼女は電卓を取り出して、その一帯をスキャンしてみた。スキャンできる範囲には限度があったが、それでもどのあたりに猛毒の化学薬品が貯蔵されているのかが、彼女にはわかった。「北方向にある溝にクラゲを叩き込めれば、薬品を上からたっぷり注いであげられるわ」「でも、どうやっておびき寄せるの?」ダニエラがたずねた。励子が答える間も無く、バイオモーフが二人の方に直進してきた。「バカはどこまで行ってもバカなのよ」励子が断言した。バイオモーフの軌道を計算したダニエラは拳銃を取り出し、バイオモーフが横を通り過ぎようとしている建物の一つに発砲した。酸が吹き出してバイオモーフの片側の皮膚を焼き、パイロットは苦痛の悲鳴をあげた。「お見事」励子はダニエラに声をかけた。
二人はバイクの進行方向を変えて北に向かった。苦痛で我を忘れたバイオモーフはさらに荒れ狂い、そんなことをしても自分自身を傷つけるだけだということもすっかり忘れて、ゆく手にあるあらゆるものを破壊し尽くした。二人が進む道は凸凹していて、障害物も多かった。目的地の半分まできたところで、クラゲから何かが発射された。ダニエラはうまく直撃を避けたが、地面が裂けたのでコントロールを失い、バイクが転倒した。彼女は投げ出されて、工場の建物の壁に激突した。バイオモーフが素早く彼女の方へと迫った。励子はすぐにバイクを止めて方向を変えた。手遅れだ。クラゲがダニエラを見下ろしている。「バイクを降りてここまで来るんだ」ライアンが命じた。「ダメよ」とダニエラが言った。「大丈夫よ」励子が答えた。クラゲの横に五本の薬品貯蔵サイロが固まって建っていることを意識しながら。彼女は軍刀を手にしてバイクを降りた。そして彼女は忌々しいバイオモーフの方へと近づいていった。バイオモーフは彼女の頭上に聳え立ち、以前戦ったことのあるバイオメカとは違っていたが、それでも巨大だと思わずにはいられなかった。こんなに近くから見ると、そいつの皮膚の上で、癌のような細孔と腐ったような皺が常にウネウネと蠢いているのがわかり、バイオモーフ(生化学的異形体)と呼ばれるのも、もっともだなと励子は思った。嫌悪感で体が震え、彼女はこんなものがこの世界に存在している事実に怒りを覚えた。ライアン・シェレンバーグが笑い声をあげた。「そんな剣でどうするつもりだ?」バカにするように鼻を鳴らした。「いじめっ子にお仕置きするの」彼女は挑みかかるように答えた。バイオモーフの腕が励子の方に伸びてきたが、励子は軍刀を一閃させ、絶妙なタイミングで敵の指を何本か切り落とした。「そんなチャチな剣で自分を守れるとでも思っているのか?」ナチが尋ねた。
何本もの腕から拳が次々と襲ってきた。そのうちの一つが彼女の脇腹にまともに当たり、自動車にぶつかったかのようだった。彼女はばったりと地面に倒れ込んだ。痛みの凄まじさに衝撃を受けていた。拳が当たった場所が、ほとんど彼女の右腕だったのは幸運だった。そちらは義肢だったからだ。「もう偉そうなことは言えなくなったか?」玲子はうんざりした様子で首を横にふった。「あんた、ちょっとは黙れないの?」「こんなに楽しんでいるときに? 無理だね。お前はクラゲの今年十三人目の餌食になるんだ」励子は軍刀に電流をチャージし、義手の方に持って構えた。「そうはいかないわ。お遊びは終わりよ」「たっぷりと楽し・・・」ライアンが言いかけた。励子は軍刀をサイロのほうに投げた。刀身がぶつかった衝撃で、電磁波が大爆発を誘発した。その瞬間、化学薬品がクラゲに降り注ぎ、バイオモーフは酸に塗れた。コックピットのライアンが悲鳴をあげた。バイオモーフには感覚受容器が装備されていたので、酸が煙を上げながらバイオモーフの皮膚を溶かす痛みを全て感じていたのだ。励子はダニエラのもとに駆け寄り、彼女が再びバイクに跨がる手助けをした。「ありがとう」ダニエラが言った。
「あんたをこんな目に合わせたのは私だから」「私はツーリングに来ただけよ」「なかなか楽しいツーリングだったわよね?」ダニエラは背後を振り返った。クラゲは酸に塗れていて、ライアンはまだ叫び声を上げていた。ダニエラは重々しく頷いた。二人が鉄工所敷地の外れまで来ると、そこに巨大なメカ・サムライが待っていた。「大尉」メカのパイロットが言った。「不二本グリゼルダ大佐よ。私の助けは必要なかったようね」「まだ仲間がいるかもしれません」「私たちにもいるわ」グリゼルダが答えているうちにも、更に何機かのメカがやってきた。励子たちは空港まで行った。そこで二人は駐車スペース外にバイクを停めた。空港の職員がめざとく見つけてやってきた。「ここに停めると、レッカーで移動させますよ」励子は職員にキーを投げて「あなたにあげるわ」と言った。
空港の建物に入ると、励子はダニエラに言った。「助けてくれてありがとう。お返しは何がいい?」「お返しって?」「私たちは二人で地獄を見てきたから、あんたは、ただ私を心配して駆けつけてくれたと思いたいところだけど、何か裏があるのよね。偶然だとは思えない。誰かさんが、あなたを寄越して私を探させた。さあ、何が望みなのか言いなさい」そう、常に見返りはあるのだ。ダニエラは電卓を取り出して無音フィールド機能をオンにした。この機能で二人の周囲の機界が無効化され、誰も彼らの会話を盗み聞きできなくなる。「私が送り込まれたことは否定しないわ。でもお返しなんて求めていない。私が属している秘密のグループの中に、あなたの経験が、私たちの目的に役立つはずだと考えている人たちがいるの。私もそう思ってる」彼女の心の中で警報が鳴った。「どんなグループ?」「カンサスの後で、よく話したようなグループよ。日本合衆国を守り抜くためのグループよ」「誰から守り抜くの?」「誰からだと思う? お粗末な指導者、最悪な決定、そしてはびこる無能さからよ。皇国内部での権力闘争は、いかなる外敵よりも、わが国を弱体化させたわ。指導者が交代するのを我慢強く待とうと言う人たちもいる。でもね、もう多村総督の統治にこれ以上耐えるわけにはいかない。だって、彼が密かにナチスと結託していることがわかったから」「ナチスですって?」衝撃を制御できず、励子が声をあげた。「多村総督が?」「多村総督が権力を維持するためにナチスと共謀している決定的な証拠があるのよ。あらゆるつてを使って懸念を伝えたんだけど、彼の支持者たちは気にしないみたい。東京の司令部に強力なコネがあるので、彼の地位は安泰なのよ。軍務経験もないのにね。軍務経験がないからこそ、総督になれたんじゃないかと言う人たちもいるわ」励子は、総督が裏切り者だとは、なかなか信じる気になれなかった。ありえないことに思えた一方で、そう考えれば過去数年、国力を弱めてきた政策の混乱に説明がつくことも確かだった。「総督をどうするつもりなの?」「皇国とその民を自ら進んで傷つけている輩に関わっている者たちの義務って、なんだと思う?」ダニエラが訊き返してきた。励子は答えをためらった。ダニエラはためらわなかった。「排除することよね、もちろん。ただ見ているだけで、なにも行動を起こさないなんてありえないわ」「でも、それは反逆行為よ」「天皇と皇国を裏切ることこそが反逆だわ。多村総督こそが反逆者なのよ。私たちは多村の馬鹿げた専制から皇国を守護しているの」「あけすけに話してくれてるけど、賢明なことかしら?」励子は知りたかった。「私が上に報告したらどうする?」ダニエラは訳知り顔で友を見た。「あなた次第だわね」と言いながらも、励子がそんなふうに裏切ることは決してないと、わかっていた。「でもね。もしも現状が変わるのが見たくて、自分も変革に参加したいという気になったら、週末にここに行ってみるのね」ダニエラは彼女に一枚の名刺を渡した。「あなたの属しているというグループには名前があるの?」励子は尋ねた。「<戦争の息子たち>っていうのよ」上層部に知らせるべきだと励子にはわかっていた。バカげた反逆行為ではないか。自分たち自身の指導者がナチスと結託しているとなどいうことがあり得ようか? それは彼女が信じてきた、あらゆることに矛盾していた。これは、彼女自身の忠誠心を試すための陰謀かもしれないと励子は思った。ダニエラは彼女の立ち位置を確かめるために送り込まれたのかもしれない。秘密警察である特高も憲兵隊も、忠誠心が疑われている無邪気な標的を試すことがあると知られていた。しかし、そこで彼女はまた自分の義手に目をやり、バイオメカがカンサスを攻撃したときのことを、また思い出した。彼女の人生の中で、最も絶望的な時間だった。今日のナチスとの諍いで、彼女の不信感はさらに強くなっていた。
バークレイのアパートに戻ってみると、自分の小さな住処が、なんだかよそよそしく感じられた。ガラクタばかりで、溢れ返りそうな生ゴミからアリたちがせっせと巣に餌を運んでいた。一度も虫を殺したことのない彼女は、アリたちの一糸乱れぬ統率と献身とを驚嘆の思いで眺めた。彼らは命令に疑問を抱いたりしない。自分の死を意味することであっても、命令には従うのだ。いたるところにビールの空き瓶が転がっていた。部屋の中は猫の小便の匂いがした。最初に引っ越してきたとき、その匂いをなんとかしようとしたのだが、結局は諦めていたのだ。照明は消えていて暗かった。カーテンを開けても、日光を遮るコンドミニアムが目の前に見えるだけだった。部屋には絵具、絵筆、なにも描かれていないキャンバスもあった。以前は絵を描くことが好きだった。だが、今となっては、体が不自由になったことを思い出させられるだけだ。思い出したくなかったし、大陸の向こう側にまだナチの奴らがいて、こちらを攻撃する準備をしているのだと思うと腹わたが煮え繰り返った。戦争の息子たちが本当に存在し、彼女には想像もつかないような腐敗と闘っている可能性が少しでもあるのなら、彼らのもとを訪ねて、自分の目で確かめねばならない。
*筆者あとがき
推敲というのは難しい作業だ。「サイバー・ショーグン・レボリューション」の第一稿は、ほぼ五万語の長さだった。短くカットしていくのは辛かったし、特にこの部分は正直なところ、最も気に入っていたのだ。もともとは回想場面で、小説の中で重要な役割を果たす「戦争の息子たち」に、いかなる経由で守川励子が加わったのかを説明するためのものだった。様々な理由で、エース・ロック社の編集者アン・セワーズと作業を進めるうち、私たちは、これを入れてしまうと物語のペースに影響すると考えて、カットすることにしたのだ。それでも私は、特にジョン・リベルトが描いた素晴らしいイラストと共に、これをなんとか発表したいものだと思い続けてきた。この独立した形に書き直した短編で、新しい主人公である守川励子と彼女の友人である嶽見ダニエラを、読者の皆さんに紹介できて、とても嬉しく思っている。日本の読者のために翻訳してくれた鬼塚大輔さんに大いに感謝する。みなさん、この短編と、9月17日に日本語版が出版される『サイバー・ショーグン・レボリューション』を楽しんでください。
*翻訳者覚書
この短編を翻訳するにあたり、U.S.J.三部作の翻訳者である中原尚哉氏が工夫された人名や訳語を多数拝借しました。中原氏、及び『サイバー・ショーグン・レボリューション』のゲラを見せてくださった、早川書房の東方綾氏に感謝します。しかしながら、この翻訳に至らぬ点があるとすれば、その責を負うのは鬼塚のみであることを明記しておきます。
※価格など表示内容は執筆時点のものです。変更の可能性もありますので、販売ページをご確認ください。
Source: Twitter (1, 2), HAYAKAWA BOOKS & MAGAZINES