※本記事は、映画『TENET テネット』のネタバレを含みます。事前情報なしで同作を楽しまれたい方は、鑑賞後に読まれることをおすすめします。
とてつもない映画を観てしまいました。
あたりまえだと思っていた〈時間〉という概念を根底からくつがえす超大作『TENET テネット』。
未来では“時間の逆行”と呼ばれる装置が開発され、人や物が過去へと移動できるようになっているという設定で、その装置を使って未来から敵がやってきて、現在の世界をぶっ壊そうとします。名もなき主人公(ジョン・デヴィット・ワシントン)に与えられたミッションとは、未来からきた敵と同じように〈時間〉から脱出して、世界を滅亡から救うこと。
世界の見方を変えないといけない
時空を飛び越えて過去や未来にワープしてみせる映画はすでにおなじみですが、『TENET テネット』は過去や未来に飛びつつ、そこから時間を過去の方向へ逆行していくところが一線を画しています。ふだん私たちが認識している時間を一方向にしか進めない川の流れにたとえるとすれば、『TENET テネット』の〈時間〉はプールのよう。レーン内なら縦方向どちらにも進めて、まるで空間のような広がりを持っています。
このたとえからしてわかりにくいかもしれませんが、脚本・監督・製作を務めたクリストファー・ノーラン氏が世界をまったく新しい見方で捉えているので、映画を観ているこっちの見方も変えないとついていけないんです。時間を逆行したら熱の伝わり方も変わるの?とか、未来と過去の因果律が逆転するの?など、直感的に理解できないことばかりで、『TENET テネット』を観ていて何度も脳ミソが爆発しそうになりました。

なにしろ『TENET テネット』は新しい物理学の法則に基づいているそうで、筆者のように「古典的な時間イメージ」しか持ち合わせていないとすんなり理解できません。でも、とにかくハチャメチャにおもしろい映画だったので、なんとか理解したい!
そこで、あらためて「時間」ってなに?という根本的なところから始め、『TENET テネット』における時間逆行の鍵でもある「エントロピー」について調べてみました。『TENET テネット』を劇場で楽しむうえで、少しでもご参考になれば。
古典的な時間イメージとは

時間に支配されていると言っても過言ではないぐらい、現代人は分刻みの生活をしていますよね。
決まった時間に出社し、予約した時間にレストランを訪れるなど、社会生活はそもそもみんなで同じ時間を共有していることが前提となっています。このあたりまえの「人類みんなでおなじ時間の進行を共有している」という考えは、ニュートン力学に由来しています。
宇宙のあらゆる空間は同一の時間で満たされていて、同一に進行しているものである、と定義したのがニュートンでした。ニュートンの「絶対時間」は、一定の速度で流れていくベルトコンベアーのようなもので、たとえ太陽であれミジンコであれ、すべては同じ速度で流れる時間の中に存在していると考えます。
そして、時間には方向性があり、常に過去から未来へ流れていくものだと定義したのはイギリスの天体物理学者・エディントンで、このような時間の一方向性を「時間の矢」と表現しました。私たちが過去と未来を区別できるのは時間が常に一方向に流れていて、物事に「不可逆過程」があるからだ、というわけです。たしかに、コーヒーにミルクを入れた瞬間から両者は混ざり合い始め、一度混ざり合ったミルクコーヒーはどんなに念じても元どおりに分離することはありません。反対に、この不可逆過程がなかったら、私たちは過去と未来の区別をつけられない、ということにもなるわけです。
この辺までは、私たちがよく知っている古典的な時間イメージです。
ゴムのように伸びる時間
一方で、アインシュタインの一般相対性理論はこの世界に「絶対時間」が存在しないことを確立しました。
時間はすべての人にとって同じ進み方をしているわけじゃなく、縮んだり、伸びたり、ブラックホールの内部のように破綻したり、またはワームホールの内部のようにどこかほかの時空につながってしまったりするかもよ〜というのが一般相対性理論の示すところです。この辺、ノーラン監督が前作の『インターステラー』でめちゃくちゃ面白い考察を展開してましたよね。
アインシュタインが描き出した時間は、自由自在に伸びるゴムみたいなもの。ニュートンのベルトコンベアー式時間よりももっと柔軟で複雑です。
それでも、物事はやっぱりひとつの方向にしか進まないことに変わりはありません。爆破されたオペラハウスが勝手に元どおりになったりはしないので、不可逆過程だと言えます。そこで、なぜ不可逆過程が存在するのかを明らかにしたのがオーストリアの物理学者・ボルツマンでした。彼が提唱した概念が「エントロピー」です。
エントロピーとはなんぞ?

不可逆過程はなぜ起きるのか? ボルツマンが着目したのは原子のふるまいでした。
ボルツマンは、不可逆過程は莫大な数の原子の「散らばり度」にあると考えました。さきほどのミルクコーヒーの例で言えば、「ミルクを入れたばかりのコーヒー」と「ミルクとコーヒーが均一に混ざったミルクコーヒー」では、ミルク粒子の散らばり度は明らかに後者の方が高い。そこで、ボルツマンはこの散らばり度を数値に置き換えて「エントロピー」と名づけました。
エントロピーを考えるとき、イメージしやすいのはオセロの駒を使った思考実験です。
オセロの黒の駒をテーブルに2個置き、テーブルをドンドンたたいて振動させてみる。すると、オセロの駒はひっくり返ったり、ひっくり返らなかったりします。この映像を逆再生してみても、とくに不自然に感じることはないはずです。
ところが、黒の駒を2万個並べて同じように振動させたらどうなるか。振動で黒が白にひっくり返ったり、ひっくり返らなかったりを繰り返しますが、ある程度繰り返すと白黒半々ぐらいに落ち着くはずですよね。この映像を逆再生してみると、半々ぐらいだった黒い駒がどんどん増えていき、最終的には2万個すべての駒が黒になります。でもこのようにすべてが同じ色に揃うのは確率的に非常に稀なので、なにか不自然だぞ?→物事の順序が逆になってるんじゃないか?→ああそうか、時間の流れが逆になっているんだな、と気づくというわけです。
エントロピー増大の法則
2個と2万個の間のどこかで「時間の矢」が生まれる。すなわち、オセロの数が膨大になると、ドンドンする行為が不可逆過程になります。
この時、エントロピーは駒の乱雑さを数値化しています。もっと具体的に言えば、それぞれのオセロの駒の色が「ミクロの状態」、オセロの駒全体の状態(いくつが黒で、いくつが白か)を「マクロの状態」だとすると、エントロピーはひとつのマクロの状態に対してミクロの状態の組み合わせがいくつあるかどうかを示す数値です。たとえばマクロの状態が白黒半々だったとすると、黒い駒が1万個、白い駒が1万個あるときのパターンがいくつあるかがエントロピー数値です。
エントロピーが大きければ大きいほどパターンが多くなるので、それだけそのマクロの状態が実際に起きる確率も高くなります。そうすると、ここが重要なポイントなんですが、物事は実際に起きる確率が高いほう…すなわちエントロピーの大きいほうへ進んでいくんですね。
これが「エントロピー増大の法則」で、『TENET テネット』の世界でとても重要な役割を果たしています。
時間の対称性

時間は過去から未来へ一方的に流れていくもの。あたりまえと思っていましたが、新しい物理学においてはそうではないようです。
「私たちの知っている現在の物理学では、時間をさかのぼることを禁止する物理法則は見つかっていない」と京都産業大学理学部宇宙物理・気象学科の二間瀬敏史教授が著書『どうして時間は「流れる」のか』で指摘しているとおり、原理的には時間が過去に向かって流れることも可能なのだそうです。
実は、ニュートン力学も、アインシュタインの相対性理論も、時間の向きを区別していません。
時間の向きを区別しない、というのは、たとえば恒星のまわりを公転する惑星の動きを逆再生してみても、なんら違和感がないということ。先ほどのミルクコーヒーの例も、最初からミルクとコーヒーが混ざっていたのであれば、いくら待ってもそのままミルクコーヒーであり続けるはずで、時間の向きは関係ありません。

ところが、エントロピーだけは違う。「エントロピー増大の法則」に従い、常に同じ方向に進んでいるのです。
『インターステラー』同様、今回の『TENET テネット』でも科学考証に携わっているアメリカの著名な物理学者・キップ・ソーン氏はノーラン監督に、「あまねく物理法則はシンメトリーだが、エントロピーだけはそうではない」と語ったそうです。
ノーラン監督自身も、「ある物体のエントロピーの流れを逆行させた場合、その物質の時間の流れを逆行させられるということだ」とプロダクションノートで語っています。
すなわち、エントロピーを減少の方向へ導くことができれば、時間を逆方向に進むことも可能になる!という大胆な発想が『TENET テネット』の根底にあるのです。
エントロピーを減少させる条件
どんな孤立したシステムも、エントロピー増大の法則に従ってやがては平衡状態に落ち着きます。
ところが、物理学者のブリコジンは、システムの最初の状態が平衡状態から遠く離れていた場合に限って、部分的にエントロピーが減少する可能性があることを発見しています。

素粒子論の研究者である吉田伸夫教授が著書で挙げているのは滝の例です。水は通常高いところから低いところへと落ちますが、落差が大きい滝ほど、そこを流れる水の中にはなんらかの弾みで上へ跳ね上がるしぶきもあるとします。すると、マクロの視点からは水は下へと向かっているのですが、ミクロのしぶき一粒だけは流れに逆らって上に向かっている、すなわちエントロピーの流れに逆行していると言える、というものです。
『TENET テネット』に出てくる“時間の逆行”と呼ばれる装置は、このようなミクロの状態を人為的に作り出して限定的に時間の流れをコントロールしているのだとも考えられます。
『TENET テネット』の中の逆行する人・物たち
以下、作中の具体的なシーンのネタバレがありますので、特にご注意ください。
果たして、映画では“時間の逆行”を介して、人や物が未来からやってきたり、名もなき主人公が過去へ戻ったりします。
最初に登場する「逆行する弾丸」は、打ち込まれた壁の穴からうしろ向きに飛んできて、構えた拳銃のリボルバーにピタリとおさまります。これは銃を撃つ動作がそのまま逆再生され、あたかも弾丸を「キャッチ」しているように見えます。
この「逆行する弾丸」をたよりに未来からの刺客の正体をつきとめようとする主人公ですが、真相に近づけば近づくほどに逆行する人や物に出くわします。そして、時間の流れに逆行している人と、時間の流れに順行している人とがおなじ時空に居合わせるので、なにが起きているのか容易に理解できないことも…。

たとえば高速道路のシーン。時間に順行している車と時間に逆行している車が入り乱れて、壮絶なカーチェイスを展開します。ただし、時間に逆行しているのは人物のみで、車などの物質は時間の流れに順行しているため、必然的にバックで移動しなければならなかったのではないかと理解しました。ここまで綿密に時間の逆行を描き出すノーラン監督の想像力には脱帽です…!
また、ロシアでの戦闘シーン。時間に順行する「レッドチーム」が過去へ、時間に逆行する「ブルーチーム」が未来に送られ、10分間キッチリでターゲットに時間的な挟み撃ち作戦をしかけます。順行するチームに「TEN(10分)」、逆行するチームにも「NET(逆から読んで10分)」与えられるので、「TENET」なのかな~?と思いつつも、時間の流れが交錯する壮絶なクライマックスをぜひお楽しみください。
ちなみに、『TENET テネット』の中で時間を逆行できる人は主人公を含めてほんの数名に限られています。なにか逆行現象が起こるたびに「これはアイツの仕業か…?」とおおよそ検討がつけば、物語の筋書きが読めておもしろいですよ。
過去に戻っても、変えられる未来とそうでない未来がある

主人公が時間を逆行する決意をするのは、過去をやり直して今起こってしまったことを変えるためです。しかし、せっかく逆行して過去にある原因を取り除こうとしたところで、現在の結果がなんら変わらないこともあります。ここがエントロピーの扱いにくさなのではないでしょうか。
エントロピー増大の法則は、マクロの視点からみると、確率的により起こりやすい結果へと連続的につながっていきます。ですから、たとえミクロの視点でエントロピーに逆行したところで、より大きなマクロのうねりに飲み込まれ、かき消されてしまう確率のほうが高いわけです。
主人公のよき相棒であるニールは、こんなことを言っていました。
What happens happens. (なるようにしかならない。)
エントロピーを部分的に減少させて時間を逆行し、過去に立ち戻ったところで、すべてうまくいくと保証されているわけではありません。それでも一縷の望みを抱いて闘い続ける主人公とニールだからこそ、感動的なラストにつながるわけですね…!
9月18日(金)いよいよ公開~~!!

いかがでしたでしょうか? 『TENET テネット』にどれだけぶっ飛んだ楽しみ方があるか、ちょっとでも伝わっていたらうれしいです。
『TENET テネット』を観て、衝撃を受けて、その反動でいろいろと物理学の書物をかじってみて分かったのは、時間はただ単に流れていくものではないということ。世界の見方を変えてしまう映画なんてそうそうないですが、『TENET テネット』はまさにそれ!
クリストファー・ノーラン監督ご本人が「本作は映画の力で観客の皆様を非日常的な旅に連れて行く作品だ」と語ってますが、ほんとうに劇場で観るしか選択肢はないほどスケールのでっかい「非日常な旅」です。
しかも、一度観ただけでは完全に消化しきれないので何度も映画館に通いたくなる、そんな衝撃的な映画。9月18日(金)に上映が開始したら、劇場に通って『TENET テネット』の世界を余すところなく再体験する気満々です。
クリストファー・ノーラン&ジョン・デヴィッド・ワシントンのインタビューはこちら
Reference: 二真瀬敏史『どうして時間は「流れる」のか』(PHP新書、2012), 吉田伸夫『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』(講談社ブルーバックス、2020), Newton『時間とは何か 増補第3版』(別冊ニュートンムック、2016)