金曜日を決戦日にしたり、ア・イ・シ・テ・ルのサインを発明したり、未来の予想図を描いたり。平成のJ-POPに強大なインパクトを刻んだバンド、ドリカムことDREAMS COME TRUE。そのメロディーや歌詩は、多くのカルチャーに影響を与えているのは言うまでもありませんよね。
ドリカムは天才的な歌声を持つ吉田美和さんと、リーダーでありプロデューサーでもある中村正人さんのお二人で構成されています。が、中村正人さんはゲーム音楽の文脈においても重要な役割を担っていたのはご存知でしたか?
2021年はセガ・エンタープライゼスが発売したメガドライブ用ソフト『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』が、発売から30年を迎えます。つまり今年は、ソニック30周年のアニバイヤーでもあるんです。そのソニックの音楽を作っていたのが、誰あろう中村正人さんなんですよ!
今年はさまざまな場所でソニックの音楽が鳴り響きました。東京五輪開会式での選手入場曲、30周年の記念コンサート、そしてソニックのBGMを中村さん自身がドリカムの曲としてアレンジした「次のせ~の!で - ON THE GREEN HILL -」は、伊藤園の「お〜いお茶」のタイアップソングになっています。
なんとも関わりが深い、ソニックと中村正人さん。一見すると繋がりがなさそうに見える両者は、どのように繋がって今にいたるのか。ソニック30周年の節目に、中村さんにいろんなことを聞いてみました。
きっかけは「なんとなく」、目指したのは映画のサントラ
──中村正人さんは、メガドライブ版『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』の1作目と2作目、すべてのBGMを手掛けていますよね。そもそも、どうしてソニックの音楽を中村さんが制作することになったのでしょうか?
中村:ドリカムがデビューした当時の事務所のプロデューサーがセガの偉い方と仲が良くて、「マリオに対抗するゲームを作る」という話をセガの方から聞いたんです。当時はゲームのソフトよりもゲームハード、マシンの競争の時代だったじゃないですか? 任天堂のスーパーファミコンに対して、セガはメガドライブを出そうとしていて、そのためのソフトとして“ソニック”が考えられていたんです。ソニックというキャラクターもマリオに対抗させるために、海外発の設定を打ち出したかったんですよね。当時の日本は海外モノが好きでしたから。
──メガドライブ版『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』発売当時の1991年といえば、『スーパーマリオワールド』が発売された翌年ですね。ゲーム競争もバチバチでした。
中村:当時の僕はドリカムとしてデビューしてもう30歳くらいだったんですが、それまでコマーシャルミュージックやCM、ジングル、ボウリング場の案内BGMとか、そういう音楽も作っていました。ドリカムもすぐに売れるわけではないと思っていたので、アルバイト感覚でいろんな音楽を作っていたのですが、ソニックの音楽もそんな流れで作ることになったんです。だから、何か壮大なプロジェクトが始まったというより、「やってみる?」「オッケー」くらいの感覚で始まりました(笑)。
──ゲーム音楽の制作自体は未経験だったわけですよね。ゲーム音楽制作において、今まで中村さんがされてきた商業音楽などの経験は活かされましたか?
中村:「何分間でループ(1回転)させるか」みたいな考え方や、時間内におさめるとか、ナレーションの邪魔にならない音楽とか、なにかしらの条件下で音楽を作るのはわりと得意だったと思います。そういった部分では経験が活かされたと思います。
──当時は和音、同時発音数もとても少なかったですものね。
中村:それこそ同時発音数6つ、5つくらいの時代でしたね。MIDIのデータにしてもリズムデータとメロディーデータが別扱いだったんですよ。例えば当時使っていたRolandのシーケンサー「MicroComposer MC-500」にしても、リズムトラックにはメロディーは含まれないんです。でも当時はそれしかなかったから、苦痛に感じることはなかったかな。同時発音数も6つなら「あ、6つね、了解」という感じ。シンセサイザーが発音数で競っていた時代だったので。

──アナログシンセだと2和音鳴らせただけでスゴいって感じでしたよね。1990年代はデジタルシンセの幕開け時代でもある。
中村:アナログシンセなら、単音以外は全部スゴい(笑)。冨田勲さん(日本のシンセサイザー音楽の礎を築いた作曲家)は1音ずつ録音して和音を作っていたりしていたから、和音が使えるなんて夢のような話ですよね。
でも、マリオに対抗するゲームの音楽ということで作っていましたが、僕個人としてはサントラ(サウンドトラック)にしたかったんです。ソニックっていう映画をイメージして、例えば『インディー・ジョーンズ』のようなソニックが冒険するシーンや、いろんなテーマの音楽を作る。というのも、当時はMTVムービーがすごく流行っていたんですよ。
──1990年代のMTVは、まさに黄金期ですよね。音楽といえばMTV!
中村:1980年以降『フットルース』とか『フラッシュダンス』とか、音楽からヒットが生まれる作品がすごく流行っていたんです。『ストリート・オブ・ファイヤー』とか。そうした映画のサントラ盤がグレイテスト・ヒッツになるくらい売れていた時代で、ソニックの音楽もそういう風にしたくて、僕が作った音楽をまとめたサントラがグレイテスト・ヒッツみたいになって売れてくれればいいなという想定で作りはじめました。
──ゲーム音楽という目線では作らなかったのですね。
中村:そうですね、その目線はなかったですね。じゃないとマリオには勝てないと思ったから。
──映画音楽などの劇伴の場合は、動く映像などを見ながら音楽を作っていきますよね。当時のソニックの音楽は何を見ながら音楽をイメージしていったのでしょうか?
中村:絵コンテです。最初は動かないグラフィックを見ながら作っていました。手描きの絵コンテとか、動いていないメガドライブのグラフィックとか。で、段々と動くシーンが見られるようになって、それを見ながらアイデアを考えていました。その動きもすごく基本的なものですけれどね。
──いわゆる製品版の、僕らユーザーが見る走り回るソニックを見る前に、あぁした疾走感をイメージしながら音楽を作っていったのですね。
当時のドリカムは、日陰のバンドだった
──ソニックの音楽を作ることになった当時は、ドリカムとしてはどんな活動をしてたのでしょうか?
中村:当時のドリカムはソニーのエピックレコードジャパンにいたんですが(いわゆる“ドリカムのエピック時代”)、エピックの中ではあまり売れてない方で。当時エピックにはTMネットワークさん、佐野元春さん、渡辺美里さん、岡村靖幸さん等がいて、ヒット曲を出しまくっていました。当時はCDで数十万枚セールスって夢のような数字でしたが、それを連発させていました。
──おぉ、すごい…。
中村:でも、僕たちはエピックの中でも日陰な班だったんですよ。
──その日陰感というか、キラキラ側ではないんだなぁって雰囲気が、やけにしっくり来てしまいます。
中村:でしょ? エピックの中でもイケてない組だったんですよ、ドリカムって。だからソニーグループの中でもまったく注目されてなくて、そんな中でソニックの話が来て、音楽を作りはじめました。とはいえ1989年に出した2ndアルバムはオリコンの9位くらいからスタートして、エピック社内はちょっとざわめいたかな。
──2ndアルバム「LOVE GOES ON・・・」ですね。累計売上180万枚で、今作以降は連続ミリオンが始まります。
中村:エピック社内の女性スタッフの間で「この曲誰?」って噂になり始めて、ウチから出てるアーティストだよって。そうやって社内のデスクから回り始めて、ラジカセでいつもうちの曲をかけてくれていたんですよ。ドリカムはデスクから伸び始めたんです。
──そんな、いわば熾烈な時代に作られたのがソニックの音楽なんですね。歴史を聞くととても感慨深いです。
中村:不思議な気持ちですね。でも、サントラ盤という夢は残念ながら叶わなかった。当時ソニーはプレイステーションのプロジェクトをすすめていたと思うので、まぁそうなると乗ってこないですよね。マリオのサントラは売れているのに、僕が提案しまくっても全然乗ってこないのにはそういう理由だったんだなって。だからソニックにおいて、僕の存在は表立っていなかったんです。
──確かに、ソニックの音楽からドリカムの中村さんを連想できるようになったのは、ゲームにハマってた当時ではなく、わりと最近のことだと実感してます。
中村:もちろん作品に名前はクレジットしてもらっていますが、音楽の権利は買い取られていますからね。ゲームの音楽にだけ注目が集まるようになったのは、『ファイナルファンタジー』以降じゃないでしょうか。
──その通りだと思います。植松伸夫さん、下村陽子さん、光田康典さんなどなど、ゲームのサントラや作曲者を気にするようになったのは、僕の場合はFF7をプレイしてからだった気がします。
音ゲーの始祖は中村正人だった!?

──30年前はゲーム音楽って存在がまだフワっとしてた時代だったと思います。その頃にゲーム音楽に携わっていたことについてはどう思いますか?
中村:いろいろと恵まれなかった30年だなぁと思います。僕の作った音楽も、セガとソニーと任天堂のゲーム闘争に巻き込まれて埋もれていったから。そういえば面白い話があって、当時、急に丸さん(丸山茂雄:株式会社エピック・ソニー創始者)が僕のところに来て「うちでもコンピューターを始めようと思うんだけど、このグラフィックすげぇ良いだろ?」って。普段来ないのに珍しくそういうの見せに来て(笑)。で、3Dで恐竜とか動いていて、スゴいっすね〜って話をして。そうしたら「これに音楽とか、なんかつけたりできない?」って聞かれて。
──めちゃめちゃ世間話ですね。
中村:そのとき僕は「CGが動いて、どっかを通りすぎるタイミングで何かやったりするとポイントが加算されるとか、そういうのどうですか?」って言ったんです。これが音ゲーの最初だと、僕は思ってます。
──あぁ、確かに! 映像と音のリンク!
中村:誰も知らないよね、こんなの(笑)。この話をよみぃ(ピアニスト、作曲者、太鼓の達人の公式アンバサダー)にしたら、明らかに今までと態度が変わり尊敬の眼差しになったよ(笑)。証人も誰もいないけれど、あの発想が音ゲーの始まりだと思います。もちろん太鼓の達人みたいな完成されたゲームとしては思いついてはいなかったけれど、それこそゲームの高橋名人の動きと同時に音を鳴らしたら得点が入る、みたいな感覚で。そう言ったら「へぇ〜」って帰っていったんですよ、丸さんは(笑)。
──ちょうど10年前の2011年に、中村正人 from DREAMS COME TRUE名義で『ソニック・ザ・ヘッジホッグ1&2 サウンドトラック』が発売されました。念願のサントラ盤ですが、改めて振り返るとどうでしょう。
中村:これも僕が無理やり出したんですけどね(笑)。誰も乗ってこなかったから、うちのDCTrecordsというインディーズから出しました。
──『ソニック・ザ・ヘッジホッグ1&2 サウンドトラック』はソニックのファンからすると待望だったと思うのですが、感触はいかがでしたか?
中村:売上もそんなにでしたよ。というのも、配信の直前にリリースしちゃって、ディストリビューションも独自だったので、ネットで買うしかなかったんです。盤もAmazonにそんなに置いていないし、僕が不優秀なだけなんですが、とにかく不遇なんですよ。ドリカムも、僕も。
──『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』は実写映画にもなりました。
中村:映画の中で僕の音楽も少しだけ使われています。あの映画はグリーンヒルズっていう町が舞台で、「GREEN HILL ZONE(メガドライブ版ソニックの最初のステージおよびBGM名)」も良いシーンで鳴っているし、エンディングではピアノヴァージョンになっているし、結構良い感じなんですよ。そもそもこの曲はソニックのメインテーマのBGMの次に作った曲で、思い入れもあるから映画で使われてすごく嬉しかったですね。
<ソニックと共演したヴァーチャルドリカムや音楽制作方法・機材についてなどをうかがった後編はこちら>